命への感謝
秋山永子
 昭和51年3月23日、洋一の誕生で私たち家族の生活が変りはじめました。1歳前後で上の二人の子どもと違うことをす るように感じ、保健所に行き“さくらんぼ会”を紹介してもらい、そこから“さざんか学園”、“はなぞの幼稚園”、“榎ヶ丘小学校”、“谷本中学校”、そして、中学校卒業してからの“就職”と、より多くの人たちとの出逢いがありました。

 ”さくらんぼ会”の辻先生との出逢いがあったことで、洋一の生活をふつうの子と同じにすることができました。特別に扱わない、手先を使い、家での仕事をきちんとできるまで辛抱強く指導することなど、西田先生には、洋一の生活をみてもらいました。青葉台にいた西田先生は、私にとってまたとない相談できる人でした。

 「児童相談所で検査をしてください」という辻先生の言葉ではじまり、”さざんか学園”に2歳8ヶ月で入園、1年5ヶ月通いました。涙なみだの洋一でしたので、数ヶ月の間、 “生活習慣・偏食・生活のリズム・着脱” に関し、先生方をてこずらせましたが、愛情を注いでいただき、楽しく生活することができました。午前8時に家を出、午後4時ごろに帰る生活になりました。ですが、次女の学校生活が狂って、身体の変調がみられるようになり、近くの ”はなぞの幼稚園”に入園しました。

 幼稚園はお寺さんなので、車が境内の中に入ってくるのでお母さんといっしょならということで、ふたりでバスに乗って1年間通いました。楽しく動物と交流しました。

 榎が丘小学校への入学希望をしていましたが、なかなか決まらず、”はなぞの幼稚園”のお別れ会をしているときに、一本の電話が掛かり、やっとのことで希望通りになりました。決まるまでに約8ヶ月かかったことになります。

 小学校に入学、担任は年配の森山先生でしたので、親が洋一に教え込むのは面倒であることや、気のつかないことなどを沢山教わりました。教育の大事さも改めて気づかされました。3年生から斉藤先生に代わりました。火・金曜日は、学校から帰ってから水泳教室に通い、6年間習いました。“こんな大変な子どもを人様に預けて家でのうのうと、してはいられないな”と思っていましたら、ホームへルパーの依頼があって、週3回、洋一を学校に送った後に行きました。寝たきりのおじいさんで、身体を拭いたり、便が出ないので尻の穴に指を入れて出したり、床屋をしたり、風呂に入れたり、掃除をしたり、また、身体の大きな人で、認知症であったので、暴れたりと、大変なことでした。

 ヘルパーと、送り迎え、あゆみの教室とで身体がきつかったようで、血圧が200にのぼり、洋一が中学生の頃にやめさせてもらいました。まもなく、そのおじいさんは亡くなり、おばあさんも後を追うように亡くなりました。

 3年生の頃から土曜日は午後から二俣川の万騎が原小学校に通いました。あゆみの教室で田中・斉藤・早瀬先生方の案で、障がいを持つ子どもの仕事場がないということで、座って仕事が出来るようにと、ろうそく作りなど、さまざまな事をし、資金作りを行いました。子どもたちが学校に通っている間に、作業所を作りたいと思い、 人形を作りバザーに出したり、内職をしたり、忙しい時期でした。子どもたちが大きくなり、自己資金でアパートを借りて3年くらいやり、二俣川に活動ホームができ、作業所が開校できました。

 そんなことをしている間に洋一が中学校に入学する時期になり、重度の知的障害と自閉症のダブルハンディをもっ た洋一では、中学に入学しても勉強は無理、養護学校にと希望し、”さくらんぼ”の西田先生に「養護学校に決めた」と、告げたところ、「谷本中学校を見学してきなさい」と言われ、見に行くと、そこが気に入り、相談にのってもらい、入学することが出来ました。

 これまた、厳しい生活が待っていました。洋一がどう生きるか目の前に叩きつけられ、考えさせられる日々でした。土曜日曜も休まず指導にあたってくださったのが、神谷・猿渡先生のふたりでした。ふたりの努力・協力・愛情・毅然とした態度で、悪い事はどんなことでも許さない、追い詰めて、追い詰めて、後がない、本人が頭で考える生活でした。またまた、洋一、涙なみだの生活でした。でも、あれよあれよという間に変りはじめ、沢山の指導をしてもらい、雑巾がけを膝をつけずにやること・スウェーデン刺繍・畑仕事・ミシン・にわとりの飼育・おうむ返しの言葉も自分で考えて答えられるようになり、仕事が合格しないと全部の授業が終わった後にやる事になり、暗くならないと帰ることができませんでした。挨拶や、返事ができるようになり、現在の洋一の基礎が出来上がりました。

 学校からのお知らせなどもすぐに配ってくれる先生ではなく、説明し黒板に書いてすぐに消してしまい、自分で言葉で言わないとお知らせをもらう事はできませんでした。こうやって、自分たちの時間を惜しまずに、費やしてくれていました。
 この二人の先生は、私たちにとっては、神様以上のひとです。

 高等学校にも見学に行きましたが、谷本の方が厳しく、張りのある生活をしていましたので、高校に行かないで中学特殊学級を卒業し、仕事に就けたらいいと思い始めました。友達の口利きで川崎の人に仕事を紹介してもらいました。それが「須田電子」でした。現在、電気部品組み立ての中小企業に就職して6年間、まさにわき目も振らず、一生懸命働いてきています。会社が大好きで、毎日が生き生きしています。午前6時半に家を出て、バス・電車・バスを乗り換えて、小机までいきます。家へ帰るのは、午後6時くらいになります。

 今は、仕事が少ないので、社長さんも本当に困っています。でも、一度も「やめてくれ」とは言われずに、本当にありがたいです。 就職して最初の頃は、1ヶ月に1回様子を見に行きましたが、この頃では3ヶ月に1回くらいと心がけています。パートの人たちも良い人ばかりです。今は仕事が沢山出来るように祈るだけです。

 また、就職と決めたとき、神経を使ってばかりで身体を動かさない洋一のストレスを伊勢原の「貴有意の郷」(きういのさと)で解消させようと思い、畑づくりをすることに決めました。機械も使いこなせ、収穫したり、山間の中で働いています。日曜日はほとんど通っています。

 月日の流れの速さに感心しているこのごろです。昨年からは、黒米を有機・低農薬で育て始めました。玄米もち米です。植物繊維・カルシューム・リン・鉄分・ミネラルが含まれています。今年も水田づくりを行っています。また、楽しくやって生きたいと思っています。

 今は、身体をいたわり、健康に注意して、元気で生きていきたい。やはり知らず知らずのうちに、これまでの疲れが溜まり、肩・足・腰が痛み、去年から私・お父さん・次女とで澤田接骨医院で治療中です。

 いろいろな出逢いの中でも、飯田先生との出逢いで、安心して子どもを育てることができました。障がいの子を一家で抱え込むことは、家庭をも壊す事もあると思います。その時、その時に出逢いの中で、心を通わせて付き合っていけたら幸せです。今では、鴨志田で生活できて幸せだと思っています。いろいろな人に沢山迷惑をかけてきましたが、大きく成長することが出来ました。村上医院の先生の気持ちの温かさでも支えられています。この子たちを育てていく上で、本当に身を削る思いをしています。目先ばかりのきれいごとだけでは片付けられない大変さが改めて思い出されてきます。洋一のためにもいつまでも家から仕事場に通うのではなく、いつかグループホームから仕事場へいけるといいと思っています。

 洋一、頑張っていこうね。いろんな壁があると思うけど、その時になったら考えていこうね。洋一を信頼して成長を楽しみにして、これから出遭うひとたち、これまで出遭った人たちもよろしくね。

(1998年)
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