19 トミさんの容態が急に悪化したという病院からの連絡が入ったのは、五月末のある日の午後のことだった。洋はただちに家族に連絡し、陽子さんが運転する車で病院へ向かった。梅雨の走りらしい雨が降っていた。「トミさん、トミさん」 と、洋は腰をかがめ、ベッドに横たわっているトミさんの耳元で囁いた。 しかし、トミさんは応えない。 「発作の頻度が密になってね。今日三度目の発作だった。午後二時三二分だ」 と田所先生が静かに言った。 洋は、居合わせた遺族にお悔やみの言葉を述べて楽々園に戻った。 夕食が終わった後の楽々園は、早々に眠りにつく人もいて静かだ。洋は、食堂から居室へ戻る兼吉さんを指導員室に招いた。 「トミさんが亡くなりました」 と、洋は、椅子に腰を下ろした兼吉さんに告げた。 「そうか」 と言って兼吉さんは沈黙した。 「今日、これからお通夜、明日の昼から告別式になります」 「明日、葬式に出るよ。連れて行ってくれ」 と兼吉さんは言う。 「寂しくなりましたね」 と、洋は兼吉さんを慰めた。 「ああ、近いうちに俺も逝くさ」 そう言って兼吉さんは立ち上がった。 その夜は、洋にとって辛い夜だった。洋は大地に沈み込みそうに重い体を引きずって、アパートに戻った。 ユリと話がしたかった。昨年の初夏、実習に訪れたユリが、手を取って散歩をしたトミさんが亡くなったのだ。洋はユリに電話をした。 「ユリちゃんも知ってる、ホームの小森トミさんが亡くなったよ」 と洋はその顛末を伝えた。 「本当?」 と言って、ユリは黙ってしまった。 ユリにとってはショックだったのだろうと、洋は理解した。 そのときだった。 「痛い!」 という、全く唐突なユリの声が洋の耳に届いた。 洋はハッとした。ユリの身の上に何があったのか。 「どうしたの?」 と洋は尋ねた。 「何でもない。大丈夫」 と、ユリは声を落として答えた。 「週末に、そっちへ行こうと思うんだけど」 と、洋は言った。 「いいわ」 「この間のビール、残ってるかな」 と洋が尋ねると、 「ダイニングに転がってる」 と素っ気なくユリは答えた。この答えに、洋は驚いた。ユリが洋にそんなぞんざいな言い方をするのは初めてのことだった。 そのとき、 「痛い」 と、再びユリが言った。それは、痛みを訴えていながら、どこかに甘さを含んだ声だった。 洋は沈黙した。 抑え難い不快感が洋に受話器を置かせた。 洋の心は激しく波立った。一年にわたってうららかな日和に恵まれていた海は、襲ってきた嵐に鋭い波頭を立てて荒れ始めた。 洋は酒を飲みながら、亡くなったトミさんのことを思った。 トミさん、あなたは八十年の人生で、何がいちばん幸福でしたか。ホームでの生活は楽しかったですか。最後の、いい思い出はできましたか。 洋は苦い酒を味わいながら、そうトミさんに問いかけた。 このページの終わりです。 |
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