銀河


  銀色に光るリムが揺れながら進み、縦に回っていた輪が横になる。
「危ない!」
 看護婦の陽子さんと実習生の芝ユリが同時に声を上げた。
 初夏の日が降り注ぐ特別養護老人ホームの前庭は、年を追って視力の落ちていく洋の目にも明るく映る。 三人が見守る中、松武兼吉さんは、倒れた自転車を離してノロノロと立ち上がった。
 兼吉さんはブツブツ言いながら、倒れた自転車を起こそうとしている。しかし、 力の衰えた足腰ではそれがなかなかできない様子だ。
「松武さん、大丈夫ですか?」
 洋は歩み寄って、自転車を起こすのを手伝いながら尋ねた。
「大丈夫だ、心配すんな。俺は毎日これで仕事に通ってたんだ」
 不機嫌にそう言って、兼吉さんは再び自転車を漕ぎ出したが、またすぐ倒れてしまった。

 兼吉さんから申し入れを受けた洋が介護員と看護婦と相談した結果、いきなり駄目というのも何だから、 一度テストしてみて、それで問題がなければ、職員の伴走をつける形でOKしようということになった。 そこで、指導員と看護婦が見守る中、このテストが始まった。

 介護員の話では、兼吉さんが仲良くしている女性の入居者である小森トミさんが、兼吉さんに買い物を頼んだことが事の発端らしかった。兼吉さんと小森さんは、互いに部屋を行き来していた。一緒にいるところを、よく見かけるという。楽々園の誰もが承知している、仲の良い二人だった。

 洋も、トミさんのベッドサイドの丸椅子に大きな体を屈めて座っている兼吉さんらしい人の姿をよく見かけた。トミさんは、ベッドに横たわっていて、二人は別に話をするわけでもない。ただ、そのように互いが身近にいるだけでいいというふうに、じっとしている。
「兼吉さん、トミさんも心配するから、もうやめましょう。頼まれた物は僕が買ってきますよ」
 洋は、荒い息を吐いている兼吉さんをなだめた。
「馬鹿言うな、俺が頼まれた仕事だ」
 兼吉さんは荒い息に震える声で言った。
「兼吉さん、もうやめて。骨折でもしたら大変。寝たきりになっちゃう。もう終わりにしましょう」
 と、看護婦の陽子さんが言った。

 兼吉さんの話では、小森トミさんの依頼の品は甘納豆と海苔の佃煮だった。
 洋と看護婦の陽子さんは、ようやくのことで兼吉さんに自転車を諦めさせて、居室に帰した。
 昼食後、洋がスーパーに買い物に出掛けようとしたときだった。指導員室のソファーで休んでいた芝ユリが、
「職員の皆さん、お忙しいでしょうから、私が買ってきましょうか。自転車を貸してください」
 と申し出た。
 洋は、
「すみません、お願いします。自転車はテストなしで乗れますね?」
 と、買い物を実習生に託した。
「もちろんです」
 そう答えて、芝ユリは走るように指導員室を出て行った。

 洋は、芝ユリが買ってきてくれた甘納豆と海苔の佃煮を持って、小森トミさんのベッドがある「もも」の部屋を訪ねた。
「あら、兼吉さんに頼んだんだけど、ありがとう」
 品物を手渡して、
「じゃあね」
 と、トミさんに背を向けようとした洋に、トミさんが、
「洋さん、どうして結婚しないの?」
 と尋ねた。

 このトミさんの問いは、もう何度聞かされたことだろう。
「男は早く身を固めなきゃ駄目よ」
 これまた、何度もくり返し聞かされてきた言葉だ。
「相手がいないからね」
 洋も、いつもと同じ返事をして、逃げるようにトミさんのベッドを離れた。
 入居者の夕食が終わり、退勤時間の午後六時。目の不自由な者のためのワープロで日誌を書いているところに、食事介助の作業を終えたらしい芝ユリが戻ってきた。
「お疲れさまでした。芝さん、一緒に帰りましょうか」
 洋の言葉に芝ユリは、
「よろしくお願いします」
 と応じた。

 初夏の午後六時、戸外はまだふんだんに光を残して明るい。洋は、鞄から折り畳み式の白杖を取り出して右手に持つ。
「楽々園にお勤めして、もう長いんですか?」
 歩きながら、芝ユリが洋に尋ねた。
「四年になります。雨の日も風の日も通っています」
「雨にも負けず、風にも負けずですね」
 芝ユリは嬉しそうに言う。
 戸建ての住宅が建ち並ぶ丘の上から、林間の階段や曲がりくねった坂道を下っ
て、二十分ほど歩いて駅に着く。

 いつもは独り黙々とものを思いながら駅に向かう道を、若い女性と歩くことに、洋は自分の周りの空気がこれまでになく和むのを感じた。
 洋の住んでいるアパートと、芝ユリが学んでいるリハビリテーション学院は、同じ私鉄のK駅近くにある。芝ユリは、その学院の寮で生活しているという。
「さよなら。また明日、頑張ってください」
「失礼します」
 そう言って、実習生は洋のもとを離れていった。

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