銀河

 その日、洋は社会福祉協議会が主催する研修に参加するために、いくつかの電車を乗り継いで会場に向かっていた。勝手のわからない駅構内で迷って、その都度人に尋ね、案内してもらったりして、電車の乗り換えには思いのほか時間がかかった。会場の最寄り駅に着いたときは、すでに開会時間を何分か過ぎていた。
洋は足を速めた。
 白杖は地面から離して持っている。先を急ぐときは、よく白杖を体の前に下げるようにして持ってスタスタ歩く。道は、そうあちこちに穴があいていたり、階段があったりするものではない、と洋は楽天的に思っている。
 しかし、その楽天も、ときには破綻することがある。

 突然、踏み出した洋の足が宙に浮き、直後に両足に強い衝撃を受けた。衝撃で足が強く痺れた。どうやら側溝にでも落ちたらしい。瞬間に事態を察知した洋は、すぐに腰の辺りにある道路の縁に手を掛けて、一気に路上に這い上がった。幸い、側溝の底に水はなかった。側溝の縁に手を掛けてよじ登ろうとするとき、左足に強い痛みを感じた。

 それはほんの一瞬の出来事だった。洋は白杖を手に、急いで研修会場に向かおうと、二、三歩足を進めた。その二、三歩で、まるで足の中で爆竹が破裂したように、洋の左足が痛んだ。洋は仕方なく立ち止まった。
 洋は、道を歩いていての怪我には慣れている。電柱にぶつかって、頬や鼻や額をすり剥いたりすることはよくある。停まっているトラックの荷台にぶつけて、前歯を折ってしまったこともある。顔といわず手といわず、膝や脛にも、生傷が絶えない。洋は、日々、そういう痛みに慣れて生活している。

 しかし、今回の痛みは尋常ではなかった。立ち止まっていてもズキズキ痛む。これから研修会場への道を歩いて、昼を挟んで午後に及ぶ研修に、痛みに耐えて参加し続けることは難しい気がした。
 洋は研修への参加を諦めて、駅への道を引き返した。電話で楽々園に事態を報告して、帰途に着いた。
 一歩足を進めるごとに襲ってくる、爆竹がはじけるような疼痛に耐えて歩く。痛む左足をかばうために、どうしても跛行してしまう。それまで意識していなかった両眼の銀河に、赤い小さな斑点がいくつも浮かぶ。
 疼痛に耐えて、一歩一歩足を進める洋の脳裡に、ふと芝ユリの姿が浮かんだ。そして、彼女の姿は、たちまち洋の心を満たした。その姿を、声を、言葉を、その明るく溌剌とした様子を思うと、不思議に痛みは薄らぐような気がした。

 アパートに帰り着いたら、芝ユリに電話をしよう。階段を上り下りして、電車を乗り換えての長い道程、痛みをこらえつつ、洋はそればかり考えていた。
 電車は刻々K駅に近づいて行く。そして、それはそのまま、芝ユリに近づいていることだという思いが、洋を励ました。
 ようやくのことで部屋に帰り着いて、洋は靴と靴下を脱いで、左足の痛みを発している部分に触れてみた。そこは、骨格がわからないほど熱く腫れていた。
 洋は、その痛む足に再び靴下を履かせ、サンダルに履き換えて近くの整形外科医院に向かった。
 レントゲンのネガを見た医師の話では、拇指の付け根の骨が折れているとのことだった。
 添え木を当て、包帯を巻き、消炎剤と鎮痛剤をもらって洋は帰宅した。

 洋は、四時を過ぎてからユリの寮に電話をした。それが、洋がユりにする初めての電話だった。
 最初に出た学生らしい若い女性の声に、洋は、
「お願いします」
 と、芝ユリの名前を告げた。
 洋の胸は、抑え難く動悸を打った。
 しばらくして、電話越しに聞こえた、
「もしもし」
 と問いかける芝ユリの声。
 その声が、聞き慣れたユリの声に比べて、ずっと幼いものに聞こえた。
「洋です」
 と告げると、
「洋さん? お元気ですか」
「あまり元気じゃなくて。研修に行く途中、側溝に落ちて、左足の拇指の骨が折れたらしいんです」
「本当ですか。歩けるんですか?」
「何とか」
「でも、大変でしょう。私、これからお宅に行きますから、待っててください」
 ひどく慌てた様子でそう言ったユリは、間もなく洋の部屋にやって来た。
 ユリが、
「お邪魔します」
 と入ってきた瞬間、傷を負った男が独りで痛みに耐えている部屋の粗い空気は、たちまち和んだ。
 それまで、一途に痛みに耐えていた洋は、すっと全身の緊張が緩むのを感じた。
 ユリは、医学を学んでいる学生らしく、洋の怪我の具合をあれこれ尋ねた後、
「駅前のシェルブールでケーキを買ってきたので、紅茶か何か、入れたいんですけど、ありますか?」
 と尋ねて、紅茶を入れ、ケーキを添えて出してくれた。
「私、毎日食事の支度に来ましょうか」
 ユリは、洋を励ますように言った。
「ありがとう。でも、さっき薬を飲んで、もう痛みも和らいだから、大丈夫。ここまでだって、電車を乗り継いで歩いてきたんだし」
 洋は強がってそう言った。
「でも、私、来ます。怪我人は無理しちゃ駄目です」
 ユリは、そう言って洋を押し切った。ユリの楽しそうな笑いを含んだ声に、洋はすぐに降伏した。

 翌日、洋は出勤した。ミーティングでその日の予定を述べることに始まって、洋が指導員として毎日果たさなければならない仕事は多い。その日は、新しく入所してくるお年寄りを受け入れる予定があった。
 さすがに、麓の駅から丘の上の楽々園まで歩くことはできない。仕方なく洋は、麓の駅からタクシーで楽々園に向かった。

 それから一週間、洋はホームに泊まり込んだ。T字杖を持ってホーム内を跛行して歩く洋の姿に、
「洋さん、どうしたの?」
 と声をかけてくれる入居者が何人かいた。
 小森トミさんは、洋の話を聞いて、
「危ないねぇ。洋さん、早くお嫁さんもらわなきゃ」
 と、催促するように言った。
「嫁さんもらっても、僕の怪我は絶えませんよ」
 と洋が言うと、
「でも、看病してくれる人がいるのといないのじゃ、大違いよ」
 と、トミさんは応酬した。
 その日の夜、洋は楽々園からユリに電話をした。
「僕、今日から一週間、ホームに泊まり込みます」
「えっ、そんなことできるんですか?」
「ええ、部屋も布団もありますから。食事も、利用者と同じものを出してもらえますから」
「そうですか」
 このとき、なぜかユリの声が少し翳った。
「一週間したら、アパートに帰ります」
「それじゃそのとき、全快のお祝いの会をしましょう」
 ユリの声は、今度は、いつもの明るい声に戻った。
 その次の週、土曜日の勤務を終えて、洋は駅までの道を辿った。歩くだけなら、もう痛みはなかった。

 K駅の改札口で、洋の電話を受けたユリが待っていた。
「洋さん、お疲れさまでした。もうすっかりいいんですか」
 ユリは陽気に尋ねた。
「ええ、山の上で、修行僧のような生活をしていましたから、大丈夫です。ほとんど痛みもなくなりました」
「全快祝い、どうしましょうか?」
 とユリが尋ねた。
「レストランにしよう。僕がご馳走します。ホームの食事を一週間食べ続けて、ステーキが食べたくて、ビールが飲みたくて」
 ユリと一緒に、洋は駅近くのレストランで、ステーキとビールを存分に味わった。
 洋がユリに抱いていた思いは憧れだった。憧れは、憧れであり続けるうちに、砂浜に打ち寄せる波の白い泡のように、束の間に消えていく。三十歳を過ぎて、目に銀河を宿した洋はそう思っていた。しかし、芝ユリは、いつの間にかその息づかいがわかるほど、洋の身近にいた。

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