心のバリアフリー化を進めよう
−ふつうの人として生きるために−

                                         先島洋
これは私が卒業した東京視力障害センター(現在の国立リハセンター) の同窓会の依頼を受けて書いたものです。 ご批判、ご意見、ご感想をお寄せいただければうれしく思います。

◇街のバリアフリー化
◇Fさん
◇被害者意識とコンプレックス
◇自分の心のバリアフリー化を

◇街のバリアフリー化:
 現在私は横浜市のJR横浜線沿線に住んでいる。横浜といっても、みなとみ らい地区のような賑やかな繁華街ではなく、昔は丘陵地帯に畑と林が連なって いた所に建つ戸建て住宅で、いわば「横浜の山の中」に住んでいるということ になる。

 私の家から歩いて十分ほどの所にJR横浜線の小机駅、二十分ほどの所には 新横浜駅がある。いずれの駅も、今年開催されたサッカーのワールドカップ決 勝戦が行われた国際競技場の最寄り駅だ。駅の規模はかなり違うが、両駅とも 二年ほど前までに、ワールドカップ開催に向けて大改装がなされ、バリアフリ ー化が進められた。点字ブロックの敷設はもちろんのこと、エスカレーター、 エレベーター、車椅子で利用できるトイレ、音声ガイド付券売機、誘導チャイ ム、音の出る信号などが次々に設置された。私の家の近所にも、大勢のお年寄 りを含めて、心身に何らかの障害のある人と、目の不自由な者も五人ほど住ん でいるが、このバリアフリー化は大変ありがたいことだった。

 日本で街のバリアフリー化が進められるようになったのは、一九八一年の国 際障害者年を契機にしてだろう。その頃は、東京周辺でも、ホームの点字ブロ ックさえ敷設されていない駅が多かった。

 その後、障害者基本法、さらにバリアフリー関係の法令が定められ、街のバ リアフリー化は年を追って進められてきた。駅はもちろんのこと、高速道路の サービスエリア、役所、公民館やホール、図書館などの公共施設等々。

 こうした施設に限らず、缶ビールの缶からトイレ用シャワー、洗濯機、ファ ックス電話などの家庭用品にも、点字表示や音声ガイドが付いているものが珍 らしくない時代になった。

 私がこの文を書いているワープロソフトの登場も、目の不自由な者にとって は画期的な出来事だった。現在では、パソコンソフトの読み上げソフトは、基 本ソフト本体や汎用のワープロソフトも読み上げ可能なまでに発達し、まだ不 完全ではあるが、活字で書かれた文書の読み上げソフトなども登場した。さら に電子メールやインターネットも利用できるようになり、目の不自由な者の文 化生活の水準は飛躍的に高くなった。

 そうした街や施設、住宅、家庭用品、そしてIT関連機器の音声化といった、 いわばハードウェアに当たるもののバリアフリー化は、飛躍的に進んできた。  しかし、あらゆる生活場面でのバリアフリー化を必要とする私たちにとって、 街とそこにある構造物や、生活用品のバリアフリー化が進められるだけでは、 ノーマライゼーション、つまり、「障害を負っている者がふつうの人として生 きられる」環境を実現できるわけではない。実はこうしたハードウェアのバリ アフリー化と同じく、いや、もっと重要なバリアフリー化を進めなければなら ない点、それが「心のバリアフリー化」である。

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◇Fさん:
  Fさんと私は、九年前、ほとんど同じ時期に小机駅の近くに越してきた。そ れ以来のつき合いになる。Fさんは、大学生を筆頭に3人の子供のお父さんだ。 勤め先は某省の外郭団体で、特に福祉関係の仕事に就いているということでは ないし、福祉について学んだこともないらしい。そのFさんと私は、通勤時間 帯にときどき小机駅で出会う。出会った日は、菊名駅で東急東横線に乗り換え て渋谷まで一緒に行く。その道すがら、いろんな話をする。家のこと、子供の こと、日々報道されるニュースのこと、たとえば昨年の九・一一の同時多発テ ロ事件とその後の国際情勢について、あるいは国内の政治・経済情勢について、 とにかくいろんな話をする。Fさんは英語に堪能な人で、よく『ニューズウィ ーク』を読んでいる。アメリカとイスラエルの関係について、ユダヤ人がいか にアメリカの政策決定に大きな影響を及ぼしているかなどについて、記事をか いつまんで翻訳してくれたりもする。電車が渋谷に着くと、私は「どうもお世 話になりました」と礼を述べてFさんと別れる。この夏の町内の盆踊りの夜に は、Fさんと会場のベンチに座って、その賑わいを前にビールを飲みながら、 国際政治談議を延々とやったものだ。

 私は、「近所の旦那同士」のつき合いをしてくれる、ごく自然に「対等の人 間」としてつき合ってくれるこのFさんにとても感謝している。  たとえば電車に乗り降りするとき、私は彼の肘につかまって歩く。しかし、 それはそれだけのことで、Fさんには、「私はボランティアをしていますよ」 と周囲の人に胸を張っている様子など全くない。
 このFさんにおいて、心のバリアフリー化は十分できていると私は思う。し かし、残念ながら、いまFさんのように心のバリアフリー化ができている人は とても少ない。これは、福祉に精通しているはずの、福祉関係の仕事に従事し ている人や、それを研究しているはずの学者先生においても同様で、私はそう いう人物に出会って、何度も失望と落胆を味わったものだ。彼らは「助ける者 と助けられる者」という構図にはまってつき合う分にはいいが、こちらが「対 等の人間」として対面しようとすると、不快感をあらわにする。その意識がい かなる心理に発するものかは、ここに書くまでもないだろう。

 世の中に生きる一人一人が、障害をもつ者を、「ふつうの人」「対等の人間」 と認識してつき合うことのできる人になる。これが心のバリアフリー化だ。そ れができなければ、障害者のノーマライゼーションは実現できないということ を、どうかご理解いただきたい。

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◇被害者意識とコンプレックス:
 世の人々に心のバリアフリー化を求めると同時に、目の不自由な私たちも、 自分の心のバリアフリー化を進めなければならない。私たちは、はたして自分 の心のバリアフリー化を成し遂げているだろうか。
 この夏、私が都心のとある駅前の交差点を渡っていたときのことだ。広い交 差点を大勢の人が渡っていた。渡っている途中で、私は誰かにぶつかった。そ の瞬間、「どこ見て歩いてんのよ!」という女性の声が飛んできた。もちろん 私は白杖を持っていた。私は唖然として、「ごめんなさい」の言葉も出なかっ た。その女性と一緒に歩いていたらしい女性が「目が見えないのよ」と彼女に 言っているのが聞こえた。

 これはそう珍らしい出来事ではない。繁華街の、特に混み合った駅構内を歩 いていると、心ならずも人にぶつかってしまうことがよくある。その都度ほと んど反射的に、「すみません、ご免なさい」と言って先に進む。
 そういう場面で、丁寧に「ご免なさい」と向こうから言ってくれる人もいる が、ときおり、「気をつけろ!」と怒鳴ったり、舌打ちをしていく人もいる。  あるいは、どうやら白杖を持って歩いている者と出会うことそのものに不快 感を覚える人もいるらしく、私とすれ違う際に、わざわざ咳払いをして行く人 もいる。それが故意に発せられたものか、たまたまそのときの生理的な必要に よって発せられた咳であるかくらい識別はつく。私が目が見えていれば、まさ かそんなことはしないだろう。

 日々の生活において、このような場面にしばしば遭遇する。こんなことが続 くと、やはり気が滅入り、どうしても被害者意識に陥ってしまうことは、誰し もあることだろう。そして、そういう目に遭わないように、外出は職場と自宅 の往復だけ、買物は家族やヘルパーさんやボランティアに頼むといった、閉ざ された生活に逃れていきやすい。確かに、そういう生き方のほうが楽ではある。 しかし、それは寂しい。いま風に言えば、引きこもりの生活ということになる。 それではいけない。バリアフリー化を、ノーマライゼーションを、ふつうの人 として生きられる環境をと訴えるなら、やはり自ら積極的に行動しなければな らないと私は思う。

 この被害者意識と同様に、私たちが克服しなければならない負の意識に、コ ンプレックスがある。コンプレックスなどというものは、生きている人々すべ てが多かれ少なかれ持っているものだ。人は身長、体重、容姿から学歴、貧富 にいたるまで、ありとあらゆる点で他人と自分を比較して優越感にひたったり、 コンプレックスを抱いたりするものだ。そういう意味でコンプレックスは、万 人共有の負の意識なのだ。

 社会生活や日常生活が困難なほどの障害を負っていて、何事につけ他者に依 存することが多いと、「助ける者と助けられる者」という構図が心に定着して しまう。ここにもコンプレックスが生まれる要因がある。それも、視力だけを とれば誰に比べても劣っているという、いわば絶対的なコンプレックスだ。私 たちは、身体の障害の重みと同様に、心にも重い荷物を背負って生きているわ けだ。

 ただ、その人の心と行動が、被害者意識やコンプレックスにどれほどの影響 を受けているかということになると、これは大いに個人差がある。被害者意識 やコンプレックスの重みに打ちひしがれて暗澹たる日々を生きている人もいれ ば、それを高みから見下ろして飄々と生きている人もいるし、心のマジックと でもいうべき術を心得ていて、それをプラスの行動エネルギーに替えて何事に も積極的に生きている人もいる。あるいは、この三つの心の状態を行きつ戻り つしている人が最も多いのかもしれない。

 目が見えようが見えまいが、一度しかない人生を、被害者意識やコンプレッ クスに打ちひしがれて生きていくのは、何とも辛いことだ。悲劇の主人公は、 小説やドラマの主人公として眺めている分にはいいが、それを自ら生きるのは ご免被りたいと誰しも思うだろう。

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◇自分の心のバリアフリー化を:
 人生はモーツアルトの音楽のように軽快に生きられればいいと私は思う。被 害者意識やコンプレックスを、いわば天空の高みから見下ろすようにして、心 のバランスを保ちつつ軽快に生きるにはどうしたらいいか。私は、これを日々 自分に言い聞かせつつ生きている。

 まず、日々のニュースをよくウォッチすることだ。自分が生きている時代の ニュースは、自分を限りなく相対化してくれる。いま、ラジオ、テレビ、イン ターネット等を通して送られてくるニュースの量は大変なもので、日本と世界 中の隅々のことを毎日私たちは知ることができる。いまアフリカの人々は、中 東の人々は、ヨーロッパやアメリカの人々はどのように生きているか。日本の 社会はどのように変わりつつあるか。日々報じられる世界の中に生きている自 分を意識することは、心のバランスを保つのにとても有効だ。

 たとえばパレスチナ難民の悲惨と辛苦に満ちた生活の様子を見て、いまの自 分の幸せと不幸を考えてみてはどうだろう。自分を絶対化して、幸福と不幸、 快と不快といった自分の現実の中に百パーセントひたって生きるのではなく、 心のある部分は常に日常の自分から離しておくことだ。

 二つ目は、「自分の人生は一度しかない」ということを常日頃自分に言い聞 かせておくことだ。人生は、未来という一定方向に流れる時間軸の上を走って いって、いずれは終わる。そういう意識に立ったとき、被害者意識であれコン プレックスであれ絶望感であれ、乗り越えられないものはないはずだ。ある一 つの心模様に固着しているとき、自分は一度しかない人生を生きていて、一刻 もとどまることのない時間軸の上を走っているということに思いつけば、そん なことにこだわってはいられないことに気がつくだろう。

 三つ目は、「自分はふつうの人間だ」と肝に銘じて生きることだ。自分の人 格すべてを「視覚障害者」という括弧でくくってしまってはいけない。それで は、「ふつうの人」として生きられないのは当然だろう。

 たとえば、ここに治療院を開業している山本太郎という妻子のある目の不自 由な男性がいて、趣味はカラオケで歌うこと、好きなものはビールと寿司だと しよう。彼は、治療院の患者に対しては、いわゆる先生であり、妻に対しては 夫であり、子供に対しては父親であり、カラオケスポットや寿司屋へ入れば客 なのだ。どの関係においても、どの局面においても、彼が目が見えないという ファクターは副次的なことだ。
 にもかかわらず、自分のすべての人格を、「視覚障害者」という括弧でくく ってしまってはいけない。目が見えないなどということは、一人の人間を象徴 する事柄ではないということを、よく肝に銘じてほしい。仮にその人の人生に 決定的な影響を及ぼす重要なファクターであっても、それはあくまで肉体的欠 陥なのだ。その肉体的欠陥をして、全人格をくくられてしまってはたまらない。 それでは心身ともに闇の中を生きるしかないではないか。

 白杖を持ち、あちこちぶつかって歩いたりする印象が強烈なものだから、一 般の人はどうしても「あの人は目が見えない」として、「視覚障害者」とかそ れに類する言葉の中に、目の不自由な者の全人格を閉じ込めてしまう。目が不 自由であるにもかかわらず、白杖を持ちたがらない人の意識の根底には、こう いう現実もあるのだろう。

 しかし、山本太郎本人が、自分で自分を「視覚障害者」という括弧の中に閉 じ込めてはいけない。くり返すが、あくまで「自分はふつうの人間だ」と肝に 銘じて生きることだ。そしてそう思うことが、自分の心のバリアフリー化に向 けて第一歩を踏み出すことなのだ。
 障害を負っている者が、自らを被害者意識やコンプレックスといった負の意 識から解放し、自分はふつうの人間だと自覚して、心のバリアフリー化を進め なければ、社会のバリアフリー化と、ふつうの人として生きること、ノーマラ イゼーションは実現できない。
 しかし、これはまなじりを決してすることではない。自然体で、ふつうの人 として生きて、一般の人々に、「私はふつうの人ですよ」ということをさまざ まな機会に、さまざまなバリエーションをもって主張し続ければいい。

 私たちにとって目に代わるものは知恵と想像力だ。その知恵と想像力を駆使 して、自分たちがふつうの人として生きられる社会の実現に向けて努力しよう ではないか。

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