洋の夏休み
−8−

 ウー氏が帰ってからの旧盆の間、洋は毎日十人前後の客を揉んだ。腰のベルト の穴はさらにもう一つ進みそうだった。毎日カツ丼を食べ、夜は缶コーヒーを何 本も飲んだ。洋には、コーヒーの中の砂糖の甘みが、とても美味に感じられるよ うになっていた。猫山もさすがに疲れているらしく、洋と猫山との会話は、めっ きり少なくなった。

 旧盆を過ぎたある日の夜、猫山が洋を呼んだ。
「洋、富屋の社長がお呼びや、洋をご指名や。腕上げよったな、行ってきい。代 金は補償したるで」

 夕方、雷鳴とともに降り始めた雨が激しく降っていた。洋の目に、戸外の闇は いつもより深く見えた。洋は右手に白杖を持ち、階段の上がり口に立て掛けてあ る旅館の番傘を左手にさして小屋を出た。

 洋は日中にたどった道の記憶を頼りに、山側の岩を白杖で叩きながら、富屋へ の山道を登った。普段でも歩きにくい山道は、雨に濡れて滑りやすく、洋は何度 も転びそうになった。
「よう、ご苦労さん。なかなか来てくれないんで、今猫山の所に電話したところ だ。早速やってくれ」
と老県会議長は、この前とは違って横柄な口調で言った。

 老人の近くに寄ると、酒の臭いがする。洋は布団の上に横たわっている老人の 後ろに回った。

 老人は前回と同じように、洋が全身を撫でるように揉み終える頃には寝入って しまっていた。洋は一言も発しないまま、その部屋を出た。

 屋根を叩く雨音は強く、風の唸りも聞こえた。洋は緊張した。とにかく一刻も 早く帰らなければと思う。

 その洋が廊下を玄関のほうに歩き出すとすぐに、
「旦那様は終わりましたか。終わったら、奥様が揉んでほしいそうです」
と言って、前回訪れたときと同じお手伝いさんが洋の手を取った。

 洋はその手を振り払って帰りたかったが、それはできなかった。お手伝いさん に引っ張られるようにして連れて行かれた部屋には、奥様が布団の上に横たわっ ていた。
「猫山さんの所の若い衆、よろしく頼みますよ」
と、これはまだ中年の女性らしい声の奥様が言った。
「頭が重いから、頭から揉んでくれるかしら」
と奥様が注文した。

 この注文を聞いて、洋はハッとした。洋はマニュアルに出ている手技は覚えて いたが、実際に客の頭を揉んだことがなかった。

 困ったなと思いつつ、洋は、どうせ只だ、何とでもなれと居直って、奥様の頭 を揉み始めた。パーマをかけた髪が指に引っ掛かって揉みにくい。そこで洋は、 奥様の頭に持っていたタオルを掛けて揉んだ。
とにかく注文の多い奥様だった。肩をもっととか、腰をもう少しとか、足の裏も 揉んでとか、次々にいろんな注文を出す。ようやくのことで、その奥様から解放 されて、洋が富屋の社長宅の玄関先に立ったのは、そこを訪れてから一時間半近 く経ってからのことだった。

 雨足は一層激しく、風も強くなっていた。遠くに見えるはずの街灯の光も見え ない。激しい雨音と風の唸りが、洋の方向感覚を失わせ、暗い風雨の檻の中に閉 じ込められてしまったような感覚が、洋の足を止めさせた。

 しかし洋は帰らなければならなかった。洋は、白杖で山側の岩を叩き、足裏で 地面を探りながら、一歩ずつ足を進めた。

 上り坂を上るときとは比べものにならない、強い恐怖感が洋をたじろがせる。 一歩踏み出した足が宙に浮いて、そのままどこまでも落ちて行きそうな気がする。 白衣の上着もズボンも靴も、すぐにずぶ濡れになった。

 洋は番傘をさしてきたことを悔いた。強い風雨の中、番傘は重く扱いにくかっ た。風にあおられて、転びそうになる。傘の油紙を叩く雨音は大きく、洋の耳に はほかの物音が全く聞こえなかった。

 激しい雨足に、足下の、石ころだらけの斜面を雨水が川のように流れて行く。 地面がどちらの方向に向かって下がっているかを確かめながら、カタツムリのよ うに歩く。

 洋は傘も白杖も投げ出して、這い出したかった。小屋まで無事に辿り着くには、 そうするしか方法はないようにさえ思われた。

 道程のほかの街灯が横長に見えるのに対して、それだけは縦長に見える街灯の 前を通り過ぎた。その街灯は道程の半分以上を過ぎた辺りにある。その弱々しい 光を目にして、フッと吐息を漏らした瞬間だった。洋の谷側の足が宙を踏んだ。 アッという間だった。洋の体は左側に倒れ、雨が流れる斜面をズルズルと滑り落 ちた。洋は、傘も白杖も手離して、濡れた地面にしがみついたが、なお洋の体は 滑り落ちた。

 そこに一切のものが入り込む余地もない凝縮された一瞬の後、落下は止まった。 どうやらそこは、断崖ではなく斜面らしかった。

 まさに絶望の淵から這い上がる思いで、洋は雨の流れる斜面を這った。番傘も 白杖もないまま、洋は残りの道程を、後ろ向きに這って坂を下った。そのとき手 に触れる、濡れた石や土の冷たさは、洋にとって、自分が生きている証だった。

 やっとのことで洋は斜面を這い下り、小屋にたどり着いた。全身泥まみれの洋 は、階段下で白衣とズボンを脱いだ。猫山はいないらしかった。洋は二階に上が って、全裸になってタオルで全身を拭き、乾いた衣服に着替えた。背中や手足の あちこちがキリキリ痛む。何か所か出血もしているらしく、血の臭いがした。

 薬も絆創膏もない。猫山は持っているのかもしれないが、洋にはその在り処が わからなかった。洋は手足や背中の痛みに耐えながら、傷ついた獣がそうするよ うに、部屋の中央に横たわってじっとしていた。この温泉郷に医者がいるという 話は聞いたことがない。きっと麓の町まで行かなければいないだろう。こうして 出血が止まるのを待って、あとは薬湯にでも入れば治るだろうか。

 楽天的にそう思う一方で、洋は感傷的な気分にもなった。傷ついたライオンが 木陰でじっと傷が癒えるのを待つうちに、ハイエナの一群に襲われて息絶え、ハ ゲワシの餌食になり、やがては蟻に残った肉の隅々まで食べ尽くされて骨だけに なり、その骨さえも、風化し、微生物に分解されて、かつて草原を疾駆した雄姿 は跡形もなくなるという。命とはそれほどはかないものなのだ。自分の命も、誰 に見取られることもなくひっそりと終って、跡形もなくなるのかもしれない。

 電話が鳴った。洋が受話器を取ると、
「遅かったな洋、ワシはいま増屋におるんやけどな、松屋ホテルに3人いてるん や。早う行ってくれ」
と言う猫山の声があったかと思うと、電話は一方的に切られた。

 こちらの事情を話すいとまもなかった。
「畜生、こんな調子で行けるか。自分が行ったらいいだろう。あのゴリラ野郎!」

 洋は、声に出してさんざん悪態をついた。

 悪態をついた後、洋は予備に持ってきた折り畳み式の白杖と傘を手に、降り続 く雨の中を松屋ホテルに向かった。

 体中あちこちの傷の痛みに耐えながらようやく3人の客を揉み終えて松屋ホテ ルから帰ると、先に戻っていた猫山が、
「洋、富屋の社長んとこ、えろう時間がかかりよったな。どないしたんや」 と責めるように言った。

 洋がその経緯を話すと、猫山は態度を一変させた。
「えらいこっちゃ、傷見せてみい」

 そう言って猫山は洋の手足や背中の傷の一つ一つを確かめた。そして、
「えらい目に遭うたな」
と言いつつ、傷薬を塗ってくれた。

 この猫山の豹変ぶりに、洋は内心戸惑ったが、猫山のするに任せるしかなかっ た。
「洋、これでビールを飲んだらあかんさかい、今夜はおとなしく寝ェ。何かあっ たら呼びい。あんまりひどいようやったら、車頼んで医者に連れたったるよって な」

 いつにない猫山の優しさが、 洋には意外だった。傷の痛みよりも疲労感のほう が強く、間もなく洋は深い眠りに落ちた。

 翌朝目が覚めると、背中や腰、傷以外に腕や脚のあちこちに痛みを覚えた。そ れでも自らを
「しっかりしろ」
と励まして起き上がり、すぐに増屋の風呂に向かった。

〔8項の終わり〕
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