現在の位置:トップ > 目次 > ウッチャンの落書きストーリー第14回

第11話

この物語の主人公の名は、ウッチャン!中途失明の視覚障害者である。
現在は、世間と言う大学で、生活社会学を学ぶ学生なのだ。

第十一話 ウッチャンは、三流陶芸家(その二)

コンビニへ外出のイラスト

職員の努力のおかげで、週に一回、月曜日に、粘土をいじれることになった。
午前10時になると、いそいそとリハビリ室へ向かうウッチャン。陶芸とは言っても、あくまでもリハビリ、機能回復訓練。手先の運動なのである。ましてや、陶芸の知識があっても、その場に居るのはリハビリの指導員。ほとんど、ご自由に、どうぞなのである。

(思うようにやればいい。わからなければ聞きなさい。助けてほしければ、声を出しなさい。)
と言う、キビシイような、当たり前のような方針のもと、陶芸に、いそしむウッチャン。
目の前にある道具で、わかっているのはろくろだけ。あとは、(なんだこれ?)とか(どんなときに、使うのかな?)と、悩む道具が置かれている。
(わからないことは、聞きなさい)の言葉より、(自由に・・)の言葉のみ、頭に、入っている。意味もなく、あれやこれやと使いだすウッチャン。それを、苦笑しながら見ている指導員。
だが、笑ってばかりはいられない。目が見えない、ましてや使い方もわかってない。どうみても、オモシロ半分、ほっとけない状態になる。
「何やってんの、そんな事に使う道具じゃないのよ。」の職員の声。
「エッ、そうなの?」とウッチャン。
「わからない事は、聞きなさいって言ったでしょう。」と職員。
そして、「これはねぇ。」と言いながら、使い方を説明。
「ウーン、ナルホド!やっとわかった。」とウッチャン。
あらためて、職員が、「だから、聞きなさいって言ったでしょ。」の言葉。
それに、「ハーイ!」と返事をするウッチャン。
「返事だけはいいんだから、内田さんは!」と、ボヤキにも似た職員のひと言。

そうそう、紹介が遅れましたが、ウッチャン担当の指導員は女性なのです。以外ときびしいのだが、天然ボケのひと言があったりする、おもしろい人なのである。となれば、相手はウッチャン。二人の会話が聞こえる周囲に笑いが起きるのは、仕方がないことなのです。怒られているのに、周りの笑いに満足げな顔をしてしまい、またまた、注意されるなんてこともしばしば。

通い始めて数ヶ月。気軽に、「ウッチャン。」と、声をかけてもらえるようにもなった。ウッチャンにとって楽しい時間を過ごせる場所となっていた。
そんな仲間たちと会話しながらの陶芸。「口より、手を動かしなさい。」と、注意されるのはおきまりになっていた。
夢中になっていると、「めずらしく真剣にやってる。こんな時、声かけるとおっかないんだよな。気を付けないと。」なんて言われることもあったりした。
15〜6人も入れば、身動きできなくなるような部屋で、思いもつかない障害を持った人達との出会い、そして世間話。ウッチャンにとって学ぶことのたくさんあった時間であり場所だったのです。

さて、ウッチャンの陶芸の実力となると、ほとんど成長しなかった。学習能力がないわけではない。性格なのか、楽しむ事が先で、覚えるのは二の次なのだ。
覚えなきゃ楽しめないだろう、てのが、常識なのだろうが、ウッチャンには頭に、(ハテナ?)と、浮かんだら、その(ハテナ?)を、なんとかしないとおさまらないのだ。
だれかが、何かを教えてもらったりしてると、(何やってんだろう)と思う。尋ねると、「ウッチャンには、まだ早い」と、言われてしまう。それでも、しつこく聞いていると、仕方なく説明する。それを聞いて(ナルホド!)と思う。そして、(ナルホド)と、思ったら、それで満足してしまう。だから中途半端に記憶されて、(どうだったかなぁ)と、悩むことになる。となると、本人が認めなくても、ウッチャンのような人間を、(学習能力がない)と言うのだろう。
とは言うものの、障害者が作った作品。無理やり誉めないとならないのが、関係者の辛いとこ。「すごいじゃん」とか「ナカナカ、よくできてるよ」と言ってくれるのだ。それに対して、「マァネ、前衛的芸術ってやつかな」とツッパリ通す。すなおに、「ありがとう」と、言えばまだかわいいんだが、それを言わないウッチャン。この手の人間には、かならずイタイしっぺ返しがある。ウッチャンにとっては、障害を持った仲間からのキツーイひと言が、それなのである。

作品を見せる。返ってくる感想は、「なにそれ?」、「コレ、なんなの?」は、まだいい。
「よく人に、見せられるねぇ」、「使えるようなの、作りなよ」などなど、悪評のオンパレードなのだ。
「アー、ヤダヤダ、芸術がわかんないヤツは。見せたおれがバカだったな」と返すのがやっと。
しかし、この言葉にも、「わかるもの作ってから、わかんないのを作りなよ」と、返される。
もう、ウッチャンの負けなのである。

さて、ウッチャンもタジタジとなる会話とは、どんなものか。放送禁止どころか、落書きにも書けない、偏見と差別に満ちた言葉が飛び交うのである。それなのに、みんな笑いながらツッコミを入れる。
「ウルセエー」「ダマレー」「バカヤロー」
と言っている本人が、笑っているのです。

ナゼ、笑って居られるのか。
ナゼ、そんな気持ちになれるのか。

たとえば、病院内の売店に行こうとする。すると、ついでに、アレコレ頼んでくる。視覚障害者に、車イスの仲間が、車イスの仲間に、ウッチャンたち視覚障害者が。それは、ごく自然なことなのである。
「見えんだから、自分で行け」
「歩けるんだから、イイジャンカ」
この逆の会話もあったりする。どんな障害があろうが、使えるときは、障害者でも使ってやるの考えなのである。

ところが、一歩!外へ。コンビ二に行くとなると、話は変わる。
「一人で、だいじょうぶか?」となり、「ついてってやる」となるのだ。
(アブナカナイカナ?)と思ってくれる。
お互いの不自由さを、お互いに残されたもので補う。助けてもらっている気もなければ、助けている気もない。(仲間のために、できることは)と言う思いがあるだけ。ともに障害がある身、これほど頼りない相手はいない。されど、これほどツヨーイ味方はいない。その時々に、お互いの存在価値を認め合う。ある時は、世間にうごめく敵と戦う戦友となりえる。同じ価値観を持てたら、どんな言葉のやりとりがなされても気にならない。笑い飛ばすことができるようになる。

ウッチャンがライトホームに居た頃は、そんな仲間が集まっていた。しかし、気遣いもなく、遠慮もないウッチャンの言動に、敵意を持つ者もいたし、トラブルもあった。仲間に囲まれ、反省を求められる以上に、攻められたことも数知れずあったのも事実なのである。それもこれも、陶芸を通して生まれた、人と人とのつながりと、その輪の中に、ウッチャンを加えてくれたやさしさが、あればこそ経験できた事なのです。

またまた、話がラポールに、たどり着きませんでした。ナントカ、次回で終わらせたいと思ってます。
さて、最後に、訂正をひとつ。
その一でのサブタイトルの、一部、(陶芸作家)は(陶芸家)の間違いです。
一応、謝っておきます。
「スイマシェーン」

第14回終わり