【投稿】
〜オセアニアクルーズ日記〜
鶴巻　繁

1. 【２０１８年１月８日　月曜日　曇〜雨】
2. 【１月　９日　火曜日　雨】
3. 【１月１０日　火曜日　晴】
4. 【１月１２日　金曜日　晴】
5. 【１月１５日　月曜日　雨〜晴】
6. 【１月１６日　火曜日　晴】
7. 【１月１７日　水曜日　夜来の雨〜曇　赤道通過】
8. 【１月１９日　金曜日　晴】
9. 【１月２０日　土曜日　雨】
10. 【１月２４日　水曜日　晴】
11. 【１月２５日　木曜日　晴】
12. 【１月２７日　土曜日　晴】
13. 【１月２９日　月曜日　曇一時雨〜晴】
14. 【１月３０日　火曜日　晴】
15. 【１月３１日　水曜日　晴一時雨】
16. 【２月　２日　金曜日　曇ときどき晴、一時小雨】
17. 【２月　５日　月曜日　晴】
18. 【２月　６日　火曜日　晴】
19. 【２月　８日　木曜日　晴ときどき曇】
20. 【２月　９日　金曜日　曇〜晴】
21. 【２月１０日　土曜日　晴】
22. 【２月１１日　日曜日　雨〜曇】
23. 【２月１３日　火曜日　曇〜晴】
24. 【２月１５日　木曜日　晴】
25. 【２月１６日　金曜日　晴】
26. 【２月１８日　日曜日　晴】
27. 【２月１９日　月曜日　晴】
28. 【２月２０日　火曜日　晴】
29. 【２月２２日　木曜日　晴】
30. 【２月２３日　金曜日　晴】
31. 【２月２４日　土曜日　晴】
32. 【２月２５日　日曜日　晴】
33. 【２月２７日　火曜日　晴】
34. 【２月２８日　水曜日　晴】
35. 【３月　２日　金曜日　晴】
36. 【３月　４日　日曜日　晴】
37. 【後書き】

２０１８年２０１８年１月８日　月曜日　曇〜雨

　６時前起床。いつものようにニュースを聴き、ラジオ体操をする。
　６時５５分、１階に下りてジローに餌をやる。この子は２か月間の妻と私の不在に 耐えられるだろうか、死んでしまうのではないかと、そればかりが心配だ。賢いジロ ーは、私たちが旅発つことをすでに感じ取っているかもしれない。
　９時に車を出すことを念頭に行動。荷物は、すでに宅配便で送ったものが２つ、今 日持っていく分については昨夜までにつくり終えている。モスグリーンのカーディガ ン、ウエザーコート、帽子着用。
　２３キロのスーツケースを車に載せる。９時過ぎ、帰りに車を運転する息子を乗せ 、妻の運転で横浜港大桟橋に向けて出発。
　９時３５分到着。妻と私が荷物とともに降りる。「行ってらっしゃい」と息子。し ばしの別れだ。改めて息子に「ジローと家と、よろしく頼むね」と私。
「行ってきます」と妻。
　船はオーシャンドリーム、３万５０００トン。長いブリッジを歩いて乗船証とパス ポートのチェックを受け、船内へ。船内に入るとすぐにパスポートを預ける。
　船室へ。４階の４０１７号室。４人部屋で、妻と妻の友人のＯさんと私と、２か月 間３人で暮らすキャビンだ。大きな窓がついていて、意外に明るくて広い。先着の荷 物と持参した荷物を解き、整理。
　１１時半、避難訓練。７階にある大ホール『ブロードウエイ』で、船内の緊急脱出 に関するボートの仕様、ライフジャケットの装着について説明を受ける。ちなみに、 乗客は千人、クルーは４００人とのこと。大世帯だ。
　１時から出港式がある９階デッキへ。何と、義姉夫婦が見送りに来てくれていた。 　デッキは大勢の乗客とクルーで賑わっている。興奮気味の笑顔笑顔笑顔。
　シャンパン、ジュースが配られ、ピースボートの川崎代表の挨拶。乾杯。ノーベル 平和賞を受賞したＩｃａｎのスタッフも来ている。船体上部に「ＩＣＡＮ」と大きく 書かれている。さすがピースボートだ。ノーベル平和賞を受賞したＩＣＡＮの核廃 絶・反原発のメッセージ。音楽。乾杯。大勢の乗客がデッキに集う。妻が義姉夫婦にテー プを投げるがはるか手前で落ちてしまう。
　ここでハプニング。１時出航予定だったのが、乗船早々に救急患者が出て出港が４ ５分遅れるとのこと。拍子抜け。せっかくの見送りの人々との別れのシーンがねェ。 仕方なくデッキを離れる。
　９階のレストランでハンバーガー、野菜サラダ、コーヒーの昼食。
　３時、船内案内を受けるため、8階のホール『スターライト』へ。いくつかのグル ープに分かれて船内をめぐる。レストラン、居酒屋「なみ平」、バー、カサブランカ 、ピアノバー、バイーヤ、レストランも４つあって、どこで、いくら食べてもいいと いう。後で知ったことだが、一日４食、５食食べる人がいるのには驚いた。大食漢の 私も敵わない。
　すでにマージャンや囲碁・将棋を始めているグループもある。高齢者が多いが、中 には２０代の学生とおぼしき男女の姿もある。スタッフは２０代からさまざまな世代 の人、国籍の人がいるが、おおむね若い。ちなみにリピーターが８０％、乗客の平均 年齢は過去最高で７０歳を超えているというから凄い。
　３時半帰室。この頃から東京湾を出たらしく船が揺れはじめる。船首に砕ける波の ゴ、ゴ、ゴという鈍い音が静かな部屋に聞こえる。妻とＯさんはベッドに横たわって いる。
　 　５時１５分、乗船カードのオレンジ組が「船内生活に関するレクチャー」を聞きに ７階ブロードウエイへ。
　新聞のこと、テレビのこと、パソコン利用のこと、８階インフォメーションのこと 。ラジオ体掻、ヨガ教室、サルサ教室、水彩画、太極拳、囲碁、将棋、マージャン、 ビリヤード、ダンス、テニス、ゴルフ、プール、ジャグジー等々の利用について。２ ０分ほど聞いて帰室。この頃から船の揺れが激しくなる。立って歩こうとすると、体 を左右に振られてよろめくことしきり。ローリングが激しく、右弦に沈み、左舷に沈 む。このときの不快感が何ともいえない。ジェットコースターの上昇・下降のときの 感覚そのままだ。船内放送で、トラベルミンを無料で配りますとのこと。
　７時半、４階レストランへ。５００席はほぼ満員状態。男性数人がいる席に腰を降 ろす。メニューは、オードブルとしてマグロのたたきほか、スープ、チキンカツ、デ ザートがチーズケーキ、コーヒーほか。
　私の向かい側に座っている男性は私と同世代か、大柄でよくしゃべる。どこぞの土 木事務所に勤めていたというが、土健屋のおやじさんかもしれない。
　耐用年数１０年、２０年というが、適当に工事してきたという。持ち込み禁止の酒 をスーツケース半分詰めてきた。子供が大学を卒業した途端、妻はピアノまで持って 逃げ出して行って、慰謝料２００万円を取られたという。そこまで思い詰めていた女 性に同情を禁じ得ない。極道おやじだ。地上のさまざまなしがらみの中で生活してい た人が、全く別世界の船上の人になったとき、心はニュートラルになり、日々心に堆 積した思いをとめどなく吐き出す。この旅の途上、彼に限らず、私はそういう人の話 を何度も聞いた。
　この男性と、私も訪れたことのある彼の住む町はいい所だ、子供とともに海水浴を していくつかのホテルに泊ったことがあるとか、ビール、ハイボールを飲みながら調 子に乗って話していたのが後でひどいことになった。ほかに自称陶芸家とも話を交わ した。
　話を切り上げて、部屋に戻ってからが大変だった。横揺れ(ローリング)、縦揺れ( ピッチング)はさらに激しくなり、波が船体にぶつかる音がガーンガーンと聞こえる 。前からの波がぶつかり、その上に船が乗り上げ、揺れる揺れる揺れる。船体のきし みが激しい。クローゼットの扉がガチャガチャ鳴る。
　私は船で暮らした経験も乏しく、３万５０００トンもある客船に乗ったことは初め てなので、まあ、そんなに揺れないだろうとタカをくくっていた。しかしそれは大き な誤りだった。ナマビール２杯、ハイボール２杯もきいた。私のベッドの枕もとにあ る机の椅子に掛けて、次第に気分が悪くなってくるのに耐えていたが、それも限界だ った。トイレに駆け込み、吐いた。さっき食べた料理と飲んだ酒、コーヒーを全部吐 いた。２度トイレに駆け込んでベッドに仰向けに寝る。妻とＯさんの掛けてくれる言 葉には、大丈夫大丈夫と答えていたが、気分は悪化の一途をたどる。まるで震度５の 地震が何時間も続いているようなのだ。すっかり弱気になって、あまりの気分の悪さ に神戸に着いたら一人、新幹線で横浜に帰ろうと真剣に考えた。古代から木造船で何 年も航海していた船乗りたちは偉かったんだなとつくづく思った。

(文中、周囲の情景描写は妻や周囲の人からの聞き書きです)

１月９日　火曜日　雨

　浅い眠りから目覚めても嵐はおさまっていなかった。朝５時過ぎ、相変わらず船は 前後左右に揺れ続け、波が船体に激しくぶつかっている。吐気はおさまっているが、 倦怠感が強く、起きて何かをしようという気になれない。
　６時、妻とＯさんはヨガ教室に出かけた。二人が部屋を出た後、不意に嘔吐感に襲 われてトイレで吐いたが、前夜吐いたときほどの苦痛は感じなかった。
　７時、艦内放送で、「レセプションよりご案内申し上げます。悪天候につき、オー プンデッキは利用できません。船が揺れておりますので、手すりをご利用になり、転 倒、ドアに手を挟まないようご注意ください」とのこと。
　吐いた後、体調は少しずつ落ち着く。沈みきっていた気分が少しずつ明るくなって いく。神戸下船のことは嘔吐する際にトイレに流した。ここに至るまでの経過を思え ば、おいそれと下船するわけにはいかないという分別が働く。朝食はキャンセル。 　船の揺れは続いているが、少しずつ元気を回復。パソコン、デイジー図書読書機プ レクストークのバッテリーチャージャーを、200ｖから日本仕様の100ｖ変換器のコン セントにセットスル。
　１０時、妻とＯさんはサルサ教室に出かけた。ここでようやくシャワー浴をしよう という元気が湧いてきて、頭髪と体を洗う。シャワーを終えると、気分はさらに明る くなった。吐き気もおさまっていた。
　１２時からの昼食はどうやら食べられそうなので、三人でレストランへ。タケノコ 御飯に生野菜、和風ハンバーグ、温野菜。コーヒー。食欲が回復すればもう大丈夫だ 。
　２時前、神戸港入港。私たちは８階のラウンジの窓越しに様子を見ていたが、昨夜 の大嵐の痕跡だろう、窓ガラスが潮で汚れていて写真が撮れる状態ではないと妻が言 う。海面から２０メートル以上ある８階の窓ガラスまで波が洗っていたことになる。 大シケだ。３万５０００トンの船体が木の葉のように揺れるという表現は、決して大 げさではなかった。
　桟橋に接岸し、新たな乗客が大勢乗船してくる。これで予約した乗客千人全員が 乗船したということか。
　３時〜ティータイム。９階のレストランへ。満員。ケーキに紅茶を楽しむ。賑やか だ。
　午後６時４５分から出航式。８、９階のデッキでは横浜の出港式と同じセレモニー 。港は暗くなっていたが、港と船のライトが煌々と美しい。音楽が賑やか。川崎代表 ほかのスピーチごとに歓声、また歓声。シャンペン、ジュースが配られる。見送りの 人は４０、５０人くらいか。セレモニーの後汽笛が３度鳴り、オーシャンドリームは ゆっくり桟橋を離れる。
　４階レストランで夕食。和食。たちうおの煮つけ、サラダ、切り干し大根の煮物、 冷奴、スープ、コーヒー、デザートはあんの入ったカステラ。同席したのは神戸から 乗り込んできた夫婦一組と女性３人。私の妻も含めて、女性たちは異口同音に家事労 働から解放されることへの喜びを語る。
　食事を終えて部屋に戻ると、また船の揺れが強くなる。ゴンゴンと波が船体に当た る音。酔い止めのトラベルミンを服用。次の寄港地は台湾のキールン港で、もう日本 の港で下船することはできない。
　船は揺れ続けていたが、トラベルミンの効能は絶大で、この夜船酔い症状に見舞わ れることはなかった。

１月１０日　火曜日　晴

　ａｍ１１時、企画説明会。企画イベントでは、フィリピンのネスルジャパンの労働 問題について、フィリピンのＮＧＯ代表のカルメリータ・ヌキさんのグループに参加 。フィリピンの労働問題について話を聞き、ベルギーの弁護士パーペ・ウォルフガン グさんを交じえて７人で話し合う。
　私からヌキさんにフィリピンのドテルテ大統領の評価を尋ねる。ドテルテ大統領は 元検事で、麻薬組織の構成員を片っ端から殺害し、アグレッシブな発言でフィリピン のトランプと呼ばれる人物だ。しかしヌキさんの話では、結局貧しい人たちには冷淡 で、支配層には甘い。強権的で自己宣伝がうまい大統領だという。
　話し合いの後、７人で昼食。パーペさんは流暢な日本語で民主主義の危機を論じる 。これには大いに触発されて、日本の民主主義の現状について私がぶち上げると、某 大学の外国語の先生をしていたというパーペさんは日本の状況をよくご存じで、私の 話に賛同してくれた。この後、パーペさんとは互いの自主企画等で横浜に帰り着くま で親しく話を交わすことができた。日本に限らず、アメリカ、ＥＵといった先進国で はポピュリズムが急速に台頭してきているし、ロシア、中国、北朝鮮のような独裁国 家で民主主義は死に絶えている。これを打破できるか。打破しなければならない。久 々に議論らしい議論ができた。

　夕方５時半、７階の大ホール「ブロードウェイ」で歓迎セレモニー。船長挨拶、船 長はオーストラリア人のアンダーソン氏。以下、副船長、機関長、航海士、操船にか かわる上級船員は全員外国人。コック長が日本人。日本人の好みに合った日本食の献 立はこのコック長によってもたらされる。ルームサービスやレストランに係るサービ スクルーはほとんどがフィリピンやインドネシアといった東南アジア出身の人々。
　シャンパンで乾杯。大勢のドレス姿の女性とタキシード姿の男性、乗客とクルーが 入り交じってダンスが始まる。外国人の歌手がバンドの演奏にのって歌う。ダンス、 ダンス、ダンス。波に揺れるホールで大いに盛り上がる。
　７時、レストランで歓迎ディナー。船長の音頭で乾杯。オードブルはキャビア、イ クラ、ほか。シャリアピンステーキ、デザートはタルトケーキ。コーヒー・紅茶。 　夜、また揺れが激しくなる。ローリング、ピッチング、波がぶち当たる音が続き、 船体は木の葉のように揺れる。トラベルミンのおかげで酔うことはなかったが、ベッ ドに就いても揺れのために１時間置きに目覚める。レストランで聞いた話では、これ はちょうど日本沿岸を北上している爆弾低気圧の影響だという。リピーターの人たち も、「こんなに揺れることはかつてなかった」と口々に言っている。大当たりだ。

１月１２日　金曜日　晴

　早朝中華民国(台湾)キールン(基隆)港接岸。レストランで朝食を終えて部屋に戻る 途中、診療所前に何人もの人が並んでいた。やはり乗船直後からの激しい揺れのため か、体調の悪い人が続出しているらしい。
　１１階のオープンデッキに上ってキールン港を見る。ポートビル、ホテルや会社 のビルが建ち並んでいる。丘の頂に公園があるのは横浜港と同じだ。
　空模様は晴。横浜出港以来初めての晴天。港の風は冷たいが、街に入ればもっと暖 かいだろう。
　９時４５分、ＡからＨまであるオプショナルツアーに参加のため、７階ブロードウ ェイに集合して５階舷門から下船。４日ぶりに踏みしめる岸壁の固さにちょっと違和 感を覚える。船内にいるときの体の揺れが残っている。税関はＩＤカードとパスポー トコピーを提示して難なくパス。ボデイチェックを受けることもなかった。
　私と妻はＥコースのマイクロバスに乗車。バスは台北市内にあるハンセン病患者の 収容施設「楽生園」に向かう。若い頃に見た野村芳太郎監督の映画『砂の器』(松本 清張原作)の印象は、私の脳裡にいまだに鮮烈に残っている。
　参加乗客は１０名、添乗員のピースボートスタッフ女性と現地在住の日本人ガイド 男性がついてくれた。高速道路を約１時間走ってバスは台北市内にある楽生園に到着 。途中車窓から見る台北市内の風景は、日本の都会の風景と変わらない。何しろホン ハイ精密工業は日本のシャープ電気を買収して経営するほどの資金力と経営ノウハウ をもった会社だ。台湾の人々の生活水準は高い。
　途中、ガイドの総田さんの解説を聞く。現在施設利用者はいずれも高齢で１２０名 ほど。
　11時、楽生園に到着。電動車椅子に乗った男性２人、女性の高砺者何人かと、ボラ ンティアの女性たちとともにいくつもの施設が建っている丘の麓まで私たちを迎えに 出てくれた。　まずは施設の集会所に向かう。　最初に出迎えてくれたのは赤い電動 車椅子に乗った９２歳の男性。手は不自由なようだったが、にこやかで明るく元気な 人だ。幾星霜、苦難を乗り越えた人の境地にあるように思われた。集会所で昼食の弁 当を食べながら、利用者の皆さんとガイドのソウタさんの話を伺う。ハンセン病の特 効薬プロミンは戦後間もなく開発されたが、台湾と日本の隔離収容政策は２０世紀末 まで続いた。
　生活棟、病棟、納骨堂、重症者棟と見学させていただいた。納骨堂は丘の頂上にあ り、２１００体の遺骨が納められているという。過去帳には日本人の名前も載ってい て、沖縄県八重山地方から移送された日本人患者も少なからずいたとのこと。妻とと もに祭壇に向かって合掌する。
　楽生園では、厳重に隔離され、逃れることのできない施設での生活に絶望して自殺 した患者さんもたくさんおられたという。そこには規律に従わない患者さんを収容す る懲戒独房まであった。
　そもそも台湾(中華民国)は戦前の一時期日本の植民地で、日本国内の施設同様、か つてはさまざまな基本的人権を奪われ、強制断種、強制堕胎といった非人道的な手術 まで行われていたという。日本の、ハンセン病患者に対する人権侵害、長年にわたる 差別と隔離政策を思う。多摩全生園、瀬戸内海の長島愛生園はじめ、いまだに十数箇 所にハンセン病療養所がある。
　当然のことだが、現在楽生園では外出も外泊も自由にできるという。高齢の患者さ んの中には日本語を話せる人が多かったし、学生ボランティアの女性も流暢に日本語 で通訳してくれた。生活費は現在毎月４万円ほどが支給されているという。帰り際、 車椅子の男性と女性がボランティアさんとともに、私たちを見送るために坂を下って 車が行き交う表通りまで下りてきてくださった。私は別れ際、皆さんと握手させても らった。その人の苦難の渕であった病の痕跡だろう。握り絞めた指が一部欠けている 方がおられた。私はその手をしっかり握り絞めて別れの挨拶をした。「どうもありが とうございました。どうぞお元気で」
車椅子の皆さんは口々に「ありがとう、ありがとう」と日本語で応えてくださった。 南国中華民国のお年寄りの声はあくまで明るかった。
　３時過ぎキールン港に帰着。

１月１５日　月曜日　雨〜晴

　昨夜は酔い止めを飲まずに寝ることができた。波音も聞こえず、これまでの航海で いちばん静かな夜だった。
　朝６時、オーシャンドリームは台湾・フィリピン間のバシー海峡を通過してセブ島 に着岸。朝食後、１０階デッキに出る。小雨が降っていたが、熱帯の雨は温かい。大 勢のバンドと女性のダンサーが棧橋上で歓迎の音楽とダンスを披露してくれる。温か い雨の中、音楽と脅りは一時間以上続いていた。私たちが下船する際、棧橋上の華や かで露出度の高い服装の女性たちが日本語で「いらっしゃいませ」と一人一人の乗客 の首にレイを掛けてくれた。ここでも税関はほとんどスルーパスだ。
　セブでは子供の権利をめぐるオプショナルツアーに参加する。地元の学校を訪れる という。
　朝食、タマゴ、ご飯、サバ、菓物。腹調不可の原因の一つである野菜を減らしても らう。１０時４５分、７階ブロードウエイに集合。私たちのグループは１７名＋スタ ッフ４名で目的地に向かう。バスに乗り１５分ほどで大きなショッピングモールに到 着。日本の、たとえば横浜市緑区のララポートの半分ほどの規模のショッピングモー ルだ。
　昼食。エスニック料理。野菜、ブタ、トリ、ゴーヤなどを香辛料、油でいためた料 理だった。
　食事と買い物を終えて外に出ると、雨はやんでいた。予めピースボートが用意した ２０個ほどの支援物資を持ってスラム、貧困地区を訪れる。そこはゴミ集積場のゴミ の中から利用可能なものを拾い集めて売って生活している人たちの生活の場だ。ブル ーシートやトタンで風雨をしのいでいるほったて小屋が並んでいる。道らしい道はな く、ちょうど雨上がりの居住地区は泥んこだった。石やレンガやベニヤ板、トタンな どで何とか通路が確保してある。白杖で確かめ、妻の誘導に従って飛び石を渡るよう にして歩く。途中、泥の中に片足を落としてしまう。妻の力で私を支えるのは難しい 。スタッフのオーストラリア人青年のマット・ダグラスの誘導を得てしばらく歩く。 女性たちが「ハロー」と声をかけてくれる。参加者たちも「ハロー」と声をかける。 　しきりにニワトリとヤギの鳴き声が聞こえる。子供たちが泥だらけの往来で遊んで いる。上半身裸、裸足でぬかるむ泥に足を取られながら遊んでいる。その子供たちが 、白杖を持って難義しながら歩いている私に駆け寄ってきた。私の腕をとり、誘導し てくれる。一人ではない、何人もの子供たちが周りに寄ってサポートしてくれる。私 は「サンキュー、ありがとう、テレマカシ」と繰り返しながら、子供たちの手を頼り に歩いた。ニワトリが盛んに鳴いている。まだ子供だろうか一頭のヤギが、車の下に 隠れて鳴いていた。かわいい声だった。
　１５分ほど歩いて学校前の舗装道路にたどり着く。再び子供たちに、「ありがとう 、サンキュー、テレマカシ」とくり返し、一人一人と握手をする。泥だらけの手もあ る。私はその小さな手の一つ一つをしっかり握りしめた。このスラムも、近く開発の ために立ちのきを迫られていて、すでに一部は年末に立ちのかされたという。しかし 、立ち退きに対する補償も、立ちのき先の保障もないということだ。
　スラムに臨接する公立学校にたどり着く。長いアプローチを歩いていくと、泥だら けになった靴を洗ってくれる人がいた。恐縮の極みだ。
　学校はしっかりした鉄筋の建て物。通された校長室で、校長先生はピースボートの 訪問に礼を述べた後、ここは公立学校で６００人ほどの生徒が学んでいるという。後 に聞いたところでは、この学校にはいわゆる普通科コースと職業技術習得コースがあ って、理美容、エステ、パン製造、溶接、造園ほかのコースがあるという。
　職業技術コースの教室を見学した後、一つの教室で歓迎セレモニーが行われた。た またまフィリピン最大のシムログ祭り直前とのことで、練習中の歌と踊りを披露して くれた。太鼓の音がドドドドドドと響く、賑やかな歌と脅りだ。
　学校を支援しているＮＧＯ「オプションズ」のリーダー女性とソーシャルワーカー の話を聞く。日本あるいはピースボートの援助に感謝する旨の話が繰り返される。 　長いレクチャーの後、３０人ほどの子供たちとの交流会。大きい子は高校生、小さ い子は小学校低学年(７歳)からこの学校に通っているという。
　途中、いずれも女子の卒業生、在学中の高校生の話があったが、二人とも言葉にで きない苦難に満ちた生活に途中涙がこみ上げてきたようだった。今し方通ってきたス ラムから学校に通っている子どもたちの中には、貧困のため通学できずにいる子ども も多いという。
　ピースボート乗客とスタッフが用意した子どもたちへのプレゼントは、折り紙、け ん玉、南京玉すだれ、習字、画家による似顔絵ほか。その間中、シヌログの音楽が教 室中に鳴り響く。
　妻は、毛筆、朱墨で「夢」や「希望」や「飛翔」といった文字を書いたパネルを用 意してきて、子供たちにプレゼント。私は折り紙ならできるという思いがあったが、 祭の音楽の大音響に疲れてしまい、ずっと椅子に掛けたままだった。妻は折り紙を折 り、毛筆で子どもたちの名前お書いてあげる。
　４時過ぎ交流会を終了し、子供たち、スタッフと別れの言葉を交わして学校を出た 。十頭ほどもいただろうか、進入路の両側にいた犬たちが一斉に吠えて私たちを送っ てくれた。
　バスの中で、日本の子供たちも６人に１人、沖縄では４人に１人の子どもが貧困に 苦しんでいる。しかし日本には憲法２５条に基づく年金制度や児童福祉法、生活保護 法等の法律でセーフティネットを敷いているが、フィリピンではどうかと尋ねると、 フィリピン政府は国連まかせで、自らセーフティネットの構築をしないという。ずっ とずっと被支援国であり続けてきたという。ＮＧＯ、宗教団体任せということか。
　フィリピンは戦後、マルコス独裁時代から、民主化を進めようとしたアキノ政権を 経て現在に至っているが、東南アジアの国々の中では比較的豊かな国といわれている 。人口は１億人超、鉱物資源も豊富だし、農業も熱帯の気候の恵みもあって、多くの 食物について短期間に大量の収穫を得られる。多くの出稼ぎ労働者が日本、中東、オ ーストラリア等で働いてフィリピンに送金している。
　それでなぜこの国の庶民の多くが貧困にあえいでいるのか。それは、少数の財閥、 富裕層が富を独占してしまう「収奪の構造」(アセモグル／ロビンソン著　『国家は なぜ衰退するのか−権力・繁栄・貧困の起源−』早川書房」が強固に構築されている からにほかならない。ポピュリストのドテルテ大統領も、大衆の人気をあおりつつ、 結局は富裕層に重きを置いた政策を展開している。それは先のフィリピンＮＧＯ代表 のアルゲリータ・ヌキさんの言葉のとおりだ。 　５時過ぎ、港に帰り着く。

１月１６日　火曜日　晴

　朝食後、１０階のジムへ。ジムにはトレッドミルのほか、各種筋トレ機器等が揃っ ている。人気のエリアで、特に午前中は込んでいてなかなか順番が回ってこない。し ばらく待ってようやくあいたトレッドミルで２０分歩く。４０００歩。
　ジムを出て１０階デッキを歩く。ポケットからサングラスを取り出して掛ける。海 上は紫外線がとても強く、サングラスは必携品だ。
　時速１０ノット(１８キロ)程度で走る船のデッキは、いつも風がある。海は穏やか で、遥かな水平線まで緩やかな波が続き、日差しにきらめいている。しばらく妻とデ ッキチェアで雑談。朝食の際言葉を交わしたことのある筑波から参加したという女性 が杖を持って歩いている。妻の話ではノルディック・ウォーキングとのこと。
　ドンドンドンドンと単調な音を響かせて太鼓の練習をしているグループがある。フ ルートの音も聞こえる。船尾にあるテニスコートにもプレーする人の姿。
　エレベーターで８階に降りる。ギャラリーでは相変わらず囲碁、将棋、マージャン が続いている。碁盤に向かっているおじいさんは６段の腕前だという。希望者を相手 に囲碁の手ほどきをしている。
　カフェ、バイーヤからダンスミュージックが聞こえる。これまた人気で、何組もの 男女が踊りに興じている。
１１時４５分、英会話教室に顔を出してみた。講師はオーストラリア人の男性。３０ 人ほどの受講者がいて、互いに相手を替えて会話の練習をする。
　昼食後、１時１５分からフォトジャーナリストの豊田直巳さんの最後の講演を聞く 。２０１１年３月１１日の東日本大震災で被災し、福島原発事故で放射能汚染を受け て避難指示を受けた福島県飯館町、双葉、波江、大熊町の現実をパワーポイントと映 像を使って解説。原発事故のために避難を余義なくされ、人生を狂わされた人々の数 は、死者・行方不明者18000人余の何倍もの数に上る。(現在８万人という説あり)福 島県会津若松出身の私にとって、それは人事ではない。人々が避難して無人となった 町や村は、家も田畑も牧場も荒廃し、丈高い雑草が生い茂り、猪や狸、ハクビシン等 が横行している。ペットたちは野生化するか、死んでしまうかしているという。 　原発事故の被害を小さく見積り、復興復興と威勢のいいかけ声ばかり大きくて、実 態が全く伴っていない政府、地元行政、東電の施策の空虚なこと。金をばらまいても 、被災者はほんの数パーセントしか元住んでいた町村に戻らないし、戻る人は高齢者 がほとんど。それでは１０年後には消滅するような限界集落を用意しているにすぎな いではないか。こんな復興計画を恥ずかしげもなく立てる政府、行政の愚かさは測り 難い。
　除線についても、建物の屋根や樹木を洗い、わずかに表土を削り取ってフレコンバ ッグに詰めては野積みして放置している。こんな中途半端で先の見通しのないことを して、「復興事業」などと言えたものではないだろう。私は実際飯館村の被災地から 石川県に避難して生活している Ｉ さん夫妻からお話を聞くことができた。事故後の原 発は、いまだに廃炉、撤去の見通しも立たぬまま、荒廃した大地に醜くそびえている 。帰還するとして、常にあの原発の存在を目にし、あるいは意識して生活しなければ ならない人々の苦痛を考えてみるがいい。
　今夜、豊田さんが製作した飯館村で被災・避難した人々の生活を追ったドキュメン タリー映画『遺言』の上映会があるという。

　４時、再び１０階デッキへ。赤道間近まで来ているはずだが、さほど暑くは感じな い。風に当たっていれば、汗ばむこともない。おそらく気温は３０度もないのだろう 。船上とはいえ、ちょっと低すぎる。
セブ島でお世話になったオーストラリア人のクルー、マット・ダグラスに出会う。挨 拶してセブでのサポートのお礼を述べる。彼の日本語はすばらしい。話だけ聞いてい ると、明快で活舌がよく、とても外国人とは思えない。
　８階に降りる。ピアノバーから歌声が聞こえる。ボサノバだ。ギターを弾いて歌っ ているのは６０歳を何歳か超えたと思われる男性。なかなか上手だ。イパネマの娘、 中国行きのスローボート、黒いオルフェ、歌手が変わってベサメムーチョ、女性歌手 になって all of you.Samar time.若い頃よく聴いたポピュラーのスタンダードだ。 最後は「クルーズに出かけよう」。２０人ほどの聴衆が拍手喝哉。イェー！　という 声がかかり、口笛が吹かれ、大受けしていた。みんな船上の生活に馴染んで楽しんで いる。

1月17日　水曜日　夜来の雨〜曇　赤道通過

　10時30分、ブロードウエイで間もなく寄港する西オーストラリア州のフリーマント ル、パースの航路説明会。
11時20分、デッキに出る。風が強く、かぶっていた帽子を脱ぐ。
11時30分、10階のジムでトレッドミルに乗り、20分歩く。ハムスターのようでどうに も心障が悪いが、1時間以上も歩いている人がいるという。
11時50分　12時過ぎに赤道上を通過するとのことでデッキに出た。ところが船内案内 で赤道通過時間は12時45分頃になるという。デッキに出てもさほど暑さは感じない。 気温は30度もなさそうだ。やはりラニーニャ現象の影響か。曇天のため掛けていたサ ングラスを外す。波が荒く、船が揺れる。
　9階レストラン「波平」(なみへい)で昼食。天ぷらうどん。なみへいの昼食はラー メン、ウドン、そば、焼きそば、パスタといった単品の麺類やカツどん等のどんぶり 物が多くて人気だが、厨房のカウンターに並ばなければならない。
3時45分　ブロードウエイへ。広島で被爆した三宅さんと大杉さんの講演を聞く。三 宅さんは被爆当時16歳の中学生とのことで、90歳近いお年だが、実にお元気で活舌も よく明快に話をされた。
　1945年8月6日朝、辺りは一瞬にして焼け野原になり、黒焦げの死体がそこここに倒 れ、死んだ赤ちゃんを抱き、焼けただれた皮膚を引きずって水を求めてさまよう人々 の群を目にしながら広島駅にたどり着いた三宅さんの目に、「米軍が新型爆弾を投下 した模様。被害は軽微なり」と書かれた軍のものらしい敬示板が目に止まったという 。それまでこの戦争に何の疑問も抱かなかった三宅さんも、「これで損害は軽微とい うのか」と強い違和感を抱いたという。
　三宅さんは、いまなお増え続ける被爆者について、核兵器がなくなるまではと思い つつ、反核運動を若い世代に受け継いでいってほしいと語っていた。その三宅さんに とって長年にわたって反核運動を続けてきたＩ　ＣＡＮがノーベル平和賞を受賞した 喜びはひとしおだったであろうと思われる。
　女性の大杉さんは被爆当時1歳だったという。自宅も周辺の家々も焼けて倒壊した が、母に抱かれて奇跡的に助かったが、同じく被爆した兄と姉は亡くなったという。 その数年後の8月6日、母が手を合わせて肩をふるわせながら独り祈っている姿を目に して、子供ながらに母の悲しみを理解したという大杉さんの話が、私の心にしみた。 国連総会で核禁止条約が賛成多数で可決されたことは、人間の歴史上画期的なことだ った。しかし、この条約を批准している国はまだわずかだ。日本政府も批准どころか 、総会で条約に賛成もしていない。現在の世界の現実を見れば、そして世界の政治力 学がわかればわかるほど、「核なき世界」というのは理想だと思う。しかし、人間は 理想を失ってはいけない。今日明日の現実ばかり見ているだけでは人間に将来も未来 もありはしない。衰退あるのみだ。悪しき権力者たちの暴力と収奪と搾取に遭って滅 びるだけだ。

　夜8時15分　ブロードウェイで乗客の芸達者大会。ダンス、歌、マジック、ボール を使った曲芸、太鼓の合奏等々、15組が出場。自作自演も多い。初老の女性がウクレ レを弾きながら歌った、老いて見る風景を楽しむ歌、「夕日に向かって歌おうよ」は なかなかよかった。出場者のほとんどが高齢者。老いた日々をクルーズ船の上で楽し く、有意義に過ごそうという人々の旅は、出発からはや10日経っている。

1月19日　金曜日　晴

　早朝、インドネシアバリ島のバベラ港着。窓からアグン山の噴煙が見える。昨年秋 、大きな噴火があって、アグン山周辺の人々が避難し、観光ツアーのキャンセルが急 増して困っているというニュースを目にしたのは昨年末のことだ。
　朝食に向かう途中、「good morning！」と、軽やかに声をかけてくれたのは、私た ちの部屋のルームサービスに当たってくれていた若い女性スタッフだ。彼女はバリ島 出身とのことで、いつも以上ににこやかでうれしそうだった。ルームサービスに必要 な日本語と英語も話せる女性で、今日は久々に帰省できるという。彼女は朝のルーテ ィンワークを早々に済ませて下船していった。
　午後３時、かねて申し込んであったオプショナルツアーでバリ島観光。途中、土産 物店に立ち寄り、バスは海岸沿いの断崖上にある、海の精霊が祀られているというウ ルワツ寺院へ。インドネシアは人口１億５０００万人のイスラム教の国だが、バリ島 はインドに発するヒンズー教の島。ウルワツ寺院もヒンズー教寺院だ。
　参道前の広い駐車場には何十台ものバスが停まっていた。バスの中でガイドさんか ら、参道にはサルが出没して観光客の謀子などを奪っていくことがあるのでご注意を という話を聞いていたが、人が多くてさすがにサルも出てこなかった。断崖上から海 を望む。赤道を越えて間もないバリ島の海はエメラルドブルー。落日にはまだ間があ ったが、水平線上に熱帯の陽は燦然と輝いていた。
　かやぶき屋根の質素なたたずまいのウルワツ寺院前に設けられた屋外ステージで、 ケチャダンスを見物。(www.youtube.com　　バリ島　ケチャダンス - YouTube 参照)
　日本、欧米、周辺諸国、そしてインドネシア国内から訪れた千人ほどの観客が、木 製のシンプルな観客席に座ってコンクリートを敷いただけの円形のステージを見る。
　上半身裸で腰布を巻き、地面にあぐら座りをした３０人ほどの男たちが歌を歌い、 それがやがてチャチャチャチャという声とコ、コ、コ、コというカエルの声を模した 合唱に変わる。ここで舞踏劇が演じられる。劇の内容は悪魔が王女と王子をさらい、 これを白演が救い出すというもので、途中、男たちの円陣の中で火がたかれる。最後 にはサービスで白演の面をつけた男性が日本語、英語、インドネシア語で挨拶をして 愛嬌を振りまいていた。この民俗舞踊の起源は２０世紀中頃と意外に新しく、ドイツ 人画家の発案も織り込まれているという。
　６時、ケチャダンスが終了し、ウルワツ寺院を出てバスで約１時間、レストランへ 。辺りにはすでに夜の帷が降りている。レストランまでの百メートルはあろうかとい う庭園の長いアプローチを歩くとき、所々に立った女性や男性が「行きは「いらっし ゃいませ」と、帰りは「ありがとうございました」と日本語で挨拶してくれた。
　庭にしつらえられた東家のようなスペースにテーブルが置かれ、20人の参加者が白 い布をかぶせた椅子に掛けて食事をする。時折サーッと雨が降ってきてはやむ。背後 の建物から青銅製のビブラフォンのような鍵盤や太鼓で奏されるガムラン音楽が、小 さな音でいつ果てるともしれず続く。民族衣装を着たウエイトレスが、庭に面した厨 房から傘をさしてしずしずと料理を運んでくる。熱帯の夜のエキゾチックな光景だ。
　バリ料理は珍味だった。コース料理とのことだったが、野菜の前菜に始まってスー プ、くし焼きの肉、蒸した鶏、豚、曜、やぎの肉、などが次々に運ばれてきた。最後 のデザートの菓物、小さなお菓子まで、十種類以上あっただろう。時間をかけてたっ ふり食事を楽しみ、10時30分オーシャンドリームに帰船。

１月２０日　土曜日　雨

　バリ島バベラ港停泊二日目。朝5時に起きて早い朝食をとったが、気が進まず今日 の予定をキャンセルした。風雨もあったし、昨日の疲れもあった。それに、予定され ているヒンズー教寺院や棚田めぐりにはあまり心を惹かれなかった。若い頃から国の 内外を問わず旅先で寺社仏閣・教会をたくさん訪ねてきた。神仏の像や十字架の前で 合掌もした。たとえば親類縁者の法事があれば、寺や墓前で冥福を祈ることにやぶさ かではないし、2011.3.11の震災の被害に遭った海辺の町々では、合掌して心から犠 牲者の冥福を祈った。しかし、私の宗教にまつわるものとのかかわりはそこまでで、 いかなる宗教にも帰依したことがない。
　古代から宗教が人間にもたらした寡福を思うと、寡のほうがはるかに多かったよう に思う。宗教ほど人心をつかむ力に満ちたものはほかにないだろう。しかし、宗教が 歴史上、いかに人間に禍をもたらしてきたかは明らかだし、現在なお、神を語って人 間に禍をもたらしている宗教の何と多いことか。
　暴力や貧困や差別に満ちた戒律を克服するために、人間が遅々とした歩みの中で培 い育んできたヒューマニズムやデモクラシーを、神を語って一瞬にしてくつがえして しまう宗教。その教理と戒律をもって他の宗教を排斥し、支配する者と支配される者 、差別する者と差別される者を固定化することに寄与してきた宗教。その呪縛から人 間が解き放たれるのはいつの日か。
　といっても、私はマルクスのように「宗教は阿片だ」というつもりはない。宗教を 否定した唯物論者たちが仕立てた政党が、ロシアや中国や東南アジア、中南米に成立 した革命政権で為した残虐行為、殺戮、暴力による支配の数々を知れば、唯物論に基 づく思想が宗教同様に悪魔のような権力者に利用されたことは歴史に明らかだ。 5時46分、Oさんと妻を送り出す。ホッとして船室にこもり、読書と執筆に没頭。吉田 秀和著『モーツアルトの手紙』、海老澤敏『モーツアルトを聴く』、小塩 節『モー ツアルトへの旅』、シュティファン・ツヴァイク『マリー・アントワネット　上・下 』。アセモグル／ロビンソン共著『国家はなぜ衰退するのか　権力・繁栄・貧困の起 源　上・下』。これらの本を読み続け、旅の途上で読み終えた。
　12時過ぎ、各ツアーのバスが次々に帰船。妻とＯさんは、昨日訪れたウルワツ寺院 とは別のヒンズー教の寺院と100キロ東方の山に作られた棚田を見てきたという。棚 田は山上の三つの湖から水を引いている水田で、年間三期作で米作を営んでいる。青 い稲穂の田、刈り入れを終えた田、田植している田とさまざまあり、作っている米は うるち米のほかに赤い米もあって、この赤い米は100グラム百円もするという。ほと んどの時間バスに乗っていて、苦行をしに参加したようなものだと妻。
　３時　豊田直巳さんのドキュメンタリー映画『遺言』を見に７階ブロードウエイへ。 原発事故の放射線被害に遭った福島県飯館村の酪農家たちの苦難の日々を撮った映画 だ。いつくしんで育ててきた牛たちを手放し、ペットと別れ、住み慣れた家を出て仮 設住宅へ、横浜戸塚の農場へ、山形の会社方式の牧場へと、町民、家族は散り散りに なっていく。火力発電所の事故なら事故発生時点が被害のピークで被害は時の経過に つれて薄らいでいくが、原発事故は孫末代までたたる。
　マスコミは真実を隠蔽する。除線が済んだ、復興だ復興だ、新しい仮設住宅ができ た、商店街ができた、学校が再開した、みんな頑張っている、原発ではデブリの位置 を確認していよいよ取り出し作業が始まる、避難指示は解除された、さあ故郷に帰ろ う等の官制のプロパガンダニュースばかり報道して、住民たちの苦難、真実の姿に関 する報道はわずかだ。
　夜8時半、続編を見る。映画のタイトルの『遺言』は、飯館村に隣接する牧場を営 んでいた５０代の男性が、原発事故の結果、放射線汚染のため牧場経営が成り立たな くなり、牛舎で自殺を遂げ、その遺書に「原発さえなければ」という言葉が記されて あったことを指している。
　二日前の18日にブロードウエイで開かれた豊田さんとの一問一答集会で、私は、「 真実を取材・報道し続けてください」とエールを送った。
　国及び福島県と飯館、波江、大熊、楢葉、川内、葛尾の各町村役場は、県内外で避 難生活を送っている人々に帰還をすすめているが、これらの町や村は若い世代の少な い限界集落で、近い将来消滅してしまうだろう。ネットのウイキペディアに載ってい る「現在の各町村の人口を見れば、それは一目瞭然だ。
　また、3.11以降、児童の甲状腺がんが多発(2018年3月現在　196人発症、うち160人 が甲状腺の摘出手術を受けている)しているにもかかわらず、「全国各都道府県の発 症数に比べて特に突出してはいない。この発症数は平均的なもので、これだけの症例 が出たのはスクリーニング効果によるものだ」(山下俊一福島県立医科大学副学長)と して、風評被害を避けるという意図のもとに真実を隠蔽してしまう国、福島県や福島 医大の恥知らずな行為は、許されるものではない。

　いよいよオーストラリアだ。船はインド洋に入り、オーストラリア大陸の西海岸に向 けて南下。オーストラリアは人口2500万人で面積は日本の22倍。グレートバリアリー フは日本がそのまま入ってしまうほどの面積を有する世界一の珊瑚礁だ。先住民のア ボリジニーの神なる岩ウルル(エアーズロック)や大峡谷のブルーマウンテン、カンガ ルーやコアラ、ユーカリ等さまざまなオーストラリア個有の動植物の宝庫。
　国旗の左上にユニオンジャックが配されてあることからもわかるように、オースト ラリアはかつてイギリスの植民地で現在も英連邦の一員。エリザベス女王をいただき 、イギリスから総督が派遣されているが、これは名誉職に止どまっている。
　広い国土の内陸は広大な砂漠地帯で、これを取り囲む海岸地帯にダーウイン、パー ス、アデレード、メルボルン、シドニーといった街が点在している。首都キャンベラ は東海岸から150キロほど内陸にある。
　ちなみに、国民1人当たりGDPは11位で51,737ドル。日本は22位で38,882ドル。国土 も国民一人一人も豊かな国だ。

　朝8時半、すでに船はインド洋に面したシャーク湾に入っている。押行き100キロ幅 200キロという広い湾で、名前のとおりのサメをはじめとして、ジュゴンや海ガメ、 さまざまな貝や海の生き物の崩庫だという。
　昨日は一日中海が荒れていたが、シャーク湾内に入って波は穏やかだった。 　昼食を終えて1時過ぎ下船開始。
　3時を過ぎてようやくフリーマントル港岸壁にオーストラリアへの第一歩を踏み出 す。空は薄曇り。空気が何とも温かくしっとりとしている。今までに体験したことの ない空気だ。とても気分がよい。ふと、マット・ダグラスが言っていた、オーストラ リア西海岸の、医者の風という言葉を思い出す。
　船を降りて30メートルほど歩いたところに税関があり、オーシャンドリームの乗客 たちが長蛇の列をなしていた。その列に並び、エスカレーターを上って、しばらく進 むとようやく税関吏がパスポートの写しとIDカードをチェック。すぐにOKが出た。船 内の上陸前のレクチャーで、オーストラリアノ税関は食品、植物、動物等の持ち込み にとても厳しいという話を聞いている。
　駅前からフリーマントル市中心部のビジターセンター行きのシャトルバスが出てい るとのことだったが、満員長蛇の列で、徒歩10分で着くという話を聞き、妻とクルー ズの仲間たち数人とともに歩きはじめる。町は高層ビルなどなくて、せいぜい4、5階 建てのビルがあるのみ。2階建ての建物が多い。道は往復2車線と狭く、両サイドに歩 道が付いている。
　町の中心部は数区画。まずガイドマップを頼りにカプチーノ通りを目指し、アイス クリーム店に入る。私はバニラ、妻はラムレーズンを頼む。久々に食べるアイスクリ ームは量がたっぷりで味も濃厚でおいしかった。
　アイスクリームを食べ終え、店を出て歩いているうちに、別にそこを目指して歩い ていたわけではないのだが、公園に隣接したフリーマントル刑務署(フリーマントル ・プリズン)にたどり着く。オーストラリアは18世紀から20世紀にかけてイギリスの 流刑地だったことはよく知られていて、いくつかの街で刑務署が観光スポットになっ ている。
　ゴシック風の太いコンクリートの柱がそびえる、いかにもいかめしい構えの階段の 前に立って、「どうする?」と妻と顔を見合わせる。せっかく来たんだから、見学し ようということになって階段を上り、ロビーの窓口で二人分の見学料15オーストラリ アドルを支払う。 「どこから来たか」と尋ねられ、「Japan」と答えると、日本語訳の解説器を貸して くれた。これを首から下げて、ほかの数人の見学者とともにガイド役の男性について 歩く。
　刑務署は1850年、アンダーソンというイギリスの軍人に率いられてフリーマントル に上陸した受刑者と刑吏の手で建設され、その後1991年まで使用されていたという。 　冷暖房のない雑居房や独房。窓のない狭く暗い懲戒独房もある。1988年には気温42 度の猛暑の日、暴動が起きて刑吏に数人の怪我人が出たという。
　鞭打ちの刑についての話の中に、規律違反をした囚人の裸の背中を鞭打ち、傷口に 消毒のため塩を塗ったという話にはゾッとした。
　死刑執行室まで見学。オーストラリア人らしい女性の見学者は、入るのをためらっ て、廊下に立ってひそひそ話をしていた。死刑執行は絞首刑。執行室は天井から端に 円筒形のフードが付いたロープが下がり、その下の床に穴があいている、実にシンプ ルなものだった。死刑執行された受刑者は45人でうち1人が女性。すべて殺人犯だっ たという。
　刑務所の案内をしてくれた年輩の、刑吏風の服装の大柄な男性は、大きな声で懇切 丁寧に話をしてくれた。死刑執行室を最後に、約1時間半で見学を終えて建物の外に 出る。薄曇りだった空は晴れて、午後の日がプリズンの外壁を明るく照らしていた。
　プリズンを出て体の緊張がほぐれる。のどかなこの港町に刑務署はどうにもそぐわ ない。商店街を歩く。人通りが少ないのがいい。すれ違う人の中には、「ハロー」と 挨拶してくれる人もいた。
　土産物を探してカプチーノ通りを歩く。アボリジニーの手になる民芸品の細密画を 描いたブーメラン、コアラの人形、キーホルダー等々を売っている店に入る。コアラ のぬいぐるみとキーホルダを買う。店主の中国人らしい男性に、コーヒーとケーキの おいしい店はないですかと尋ねて、紹介されたカプチーノ通りのカフェニ赴き、カフ ェオレとケーキを頼む。12ドル。カフェオレもケーキも、量もたっぷりでとてもうま かった。ヨーロッパノ国々でもそうだが、ケーキ、コーヒー、アイスクリームのおい しさは日本で食べるそれらの味を超えている。店内も広々として明るい。ブラボーだ 。
　プリズン見学でいささか憂欝になったが、おいしいケーキとコーヒーで元気を取り 戻し、税関のチェックを経て6時半、オーシャンドリームに帰る。

１月２５日　木曜日　晴

　フリーマントル港２日目。朝９時、港に隣接している駅から電車で西オーストラリ ア州の州都パースに向かう。パースは、「世界でいちばん美しい街」といわれている 街とのこと。誰がどのような理由で「世界でいちばん美しい街」と評するのかはわか らないが、訪れて見れば一目瞭然ということか。
　10時前、電車はパース駅に到着。パースは人口２００万人。パース駅周辺は、ビル 、ショッピングモールが建ち並ぶ世界中どこにでもある繁華街。東京・横浜のような ラッシュ状態ではないが、行き交う人の姿は多い。
　ブルーキャット936系統のバス停を探し歩き、ようやく見つけて乗り込む。目的地 はキングスパーク。乗車料金は無料。マットの話では、西オーストラリア州は財政が 豊かで、行政サービスは極めて良好とのことだった。確かに、電車料金は障害者本人 とアシスタントの二人で一人分の料金と、外国人観光客の私も日本同様の割引が受け られた。
　そんなこともあって、イギリスはじめ、ＥＵ、東欧諸国、さらに近隣のインド、イ ンドネシアといった国々からの移民が増えているという。実際、パースでは２１世記 になってから人口が百万人近く増えている。やはり「世界でいちばん美しい街」の魅 力と行政サービスの手厚さが人を引きつけるのだろう。
　青猫バスに乗って15分ほどでキングスパークに到着。キングスパークは面積４００ ヘクタールという広大な公園で、黒鳥が遊ぶスワン川と白砂のビーチも望める。雲一 つない夏空の下、高台にある公園からは、パースの街並み、スワン川、ビーチが望め る。やはり美しい街だ。
　公園内は芝生、色とりどりの花が咲き競い、ユーカリの林もあちこちに見える。こ の大陸にしかいないという鳥たちのさえずりが聞こえる。あくまで青い空の下、ひば りに似た鳥の声は、ひばりの声よりもさらに澄んで美しい。
　呼吸する空気が日本の都会の空気と全く違う。濁りが感じられず、あくまで爽やか だ。どこまでも続く広い遊歩道と緑の芝生と花々、ユーカリをはじめとする緑輝く木 々。広々とした公園の空間に体が解き放たれて、爽やかな空気と同化しているように 感じる。私は白杖をかついで走り出したくなった。トレッドミルの上ではなく、キン グスパークの遊歩道なら走れそうな気がした。
　公園内でピースボートのオプショナルツアーの一行と出会う。夏空の下、美しい公 園に身を置いて、皆さん嬉しそうに話が弾み、笑い声が絶えない。
　私たちは40分ほど公園を散索した。４００ヘクタールの公園を一わたり見て歩くに は何日かかるだろうか。わずかな時間で見られるのはほんの少しだ。船の門限は午後 ３時４５分。時間がなくて、地上６２０メートルの高さにあるという展望遊歩道には 行けなかった。名残りを惜しみつつバスターミナルで再び936系統の青猫バスを探し て乗り込む。そこでドライバーが「このバス、駅に行きますよ」ときれいな日本語で 教えてくれたのにはびっくり。「私は日本人です」とも言っていた。中年の男性ドラ イバーだ。この街にひかれて移住してきたのだろうか。
　パース駅でドライバーに丁寧に礼を述べ、バスを降りて昼食をとるべくレストラン を探す。10分ほど歩いてレストラン街に入り、大型レストランでピザを頼む。運ばれ てきたマルガリータピザはボリュームたっぷりでおいしかった。
　パースは真夏の日射しが照りつけ、日なたは暑かったが吹く風は澄んで涼しく、反 袖シャツで行動している分には一日中汗ばむこともなかった。本当に快適な街だ。 　1時過ぎ妻と私は電車でフリーマントルに戻る。電車内には、多くのピースボート の仲間たちの姿があった。フリーマントルの駅を出て近くのスーパーで買い物をする 。妻がナッツ、菓子、マンゴー、ワインと次々に食料品を私が持つ篭の中に入れ、篭 はずっしりと重くなる。オーストラリアの物価は日本よりやや高めだが、野菜や果物 や肉、それにワインは安かった。スーパーを出たときはすでに3時を回っていた。 　部屋に戻り、早速コーヒーをいれ、買ってきたマンゴーを剥いて食べる。メロンほ どの大きさで日本の桃に似た菓肉は甘みたっぷりで美味だった。

１月２７日　土曜日　晴

　10時30分　ブロードウエイで航路説明会。1月29日　アデレード→1月31日　メルボ ルン→2月2日　タスマニア島→2月5日・6日　シドニー寄港予定。オーシャンドリー ムはいんど洋岸のフリーマントルから南極海に入り、アデレードを経て、オーストラ リア南岸を東進、メルボルンに寄港、さらに南緯42度付近のタスマニア島に寄港 した後オーストラリア南太平洋岸を北上、オーストラリア最後の寄港地シドニーに向 かう。

午後1時30分　７階ブロードウエイでカリナ・レスターさんの講演会。カリナさんは1 955年と翌56年、イギリスが南オーストラリア州で実施した核実験で被爆したオース トラリアの先住民アボリジニを父親にもつ女性。当時南オーストラリア州に住んでい た原住民のアボリジニーは核実験について何も知らされておらず、一瞬目もくらむ閃 光が天空を覆い、その後黒い煙が立ち込めて辺りは見えなくなったとカリナさんの父 親は語っていたという。その後カリナさんの父親は失明した。多くの人が亡くなった り父のように被爆の後遺症に苦しんだが、被爆したアボリジニーの人数、被爆して亡 くなった人の数、負傷の程度、詳細に関する統計がないため、数を示すことができな いという。悲しいことにアボリジニーは文字をもたない民族なのだ。それでもカリナ さんと仲間たちはオーストラリア政府、国連に働きかけて核廃絶運動を続けていると いう。
　1950年代、イギリスだけでなく、アメリカ、フランスは南太平洋地区で核実験を繰 り返していた。イギリスは南オーストラリア州で、アメリカはビキニ環礁で、フラン スはムルロワ環礁で。日本のマグロはえ縄漁船の第五福竜丸が被爆したのもこの時期 で、1954年3月1日、南太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で行われたアメリカによる水 爆実験の際だった。この実験に際しては漁船数百隻、２万人が被爆したといわれる。 第五福竜丸では乗組員２３人全員が被爆し、久保山愛吉さんが亡くなっている。オー ストラリアを含む南太平洋諸島で核実験のために被爆した人々の健康被害、破壊され た自然の被害は甚大で計りしれない。
　この日はピースボートの企画が続く。午後3時から、コブラさんという22歳になる アフガニスタン生まれの女性の話を聞く。彼女は1995年、アフガン戦争終結後、イス ラム原理主義集団タリバンが国内における少数民族に対して虐殺、子供や女性の奴隷 化、人身売買といったすさまじい悪業を為してきた。その地域に生活していたという 。1歳のとき、カリナさんが寝かされていた部屋が爆弾で破壊され、間一髪命拾いを したという。彼女が属する部族は、このタリバンのジェノサイトの対象にされ、何百 人、何千人と次々に殺害されていった。
　2000年、コブラさんの父親はタリバンに命を狙われ、単身オーストラリアへの逃避 行を決行。5年後の2005年、ようやくコブラさん一家はシドニー空港で無事父親との 再会を果たした。これは、本当に奇跡としかいいようのない特別なことだったとコブ ラさんはいう。
　その後コブラさんはシドニーで学校教育を受けて大学に進学し、英語はネーティブ のように話せるようになっている。
　コブラさんは、人権は単なる言葉のみであってはならない。憎しみは何もまないど ころか、殺人までも生む。愛こそがこの世で生き延びるために必要なものだと語った 。若くしてノーベル平和賞を受賞した、パキスタンのマララ・ユスフザイさんを思わ せる女性だ。
　私はふとミャンマーのロヒンギャ難民を思った。ミャンマーのラカイン州からロヒ ンギャの人々60万人が隣国のバングラディッシュに逃れている。ロヒンギャの人々は 、長年ミャンマーに定住してきたにもかかわらず、ミャンマー政府はロヒンギャの存 在も国籍も認めないという。根底には多数派の仏教徒とイスラム教徒であるロヒンギ ャの角執がある。ノーベル平和賞を受賞した、現在ミャンマーの最高権力者であるア ウンサウン・スーチー氏にして、そのような認識しかもっていないことに、問題の深 刻さがある。
　武力による大量虐殺といった暴虐非道なことでもない限り、60万人もの人々が住み 慣れた地域を突然離れていくことはないはずで、そこでは武力によるジェノサイトが 行われたという報道がある。大量虐殺によって仲間が、家族が次々に殺されていくの を目のあたりにしたがゆえに、60万人もの人々は長年住み慣れたラカイン州での生活 を捨て、隣国バングラディッシュに逃亡せざるを得なかったのだろう。その苦難と悲 惨を思うと胸が痛む。

１月２９日　月曜日　　曇一時雨〜晴

　10時アデレードのアウターハーバー着岸。昼食後上陸。岩壁に地元のバンドが20人 ほど揃って歓迎の歌と演奏を聴かせてくれる。
　11時から9階で昼食のパスタを食べ、急いで支度をして12時過ぎ、岩壁前のアウタ ーハーバー駅へ向かう。12時12分、3両編成のディーゼル車到着。40分ほどでアデレ ード駅着。
　アデレードの街は思っていたよりずっと大きい街だった。南オーストラリア州の州 都で人口は110万人。駅から広い往来に出て幅2車線ほどもある歩道を歩く。パース同 様の無料巡環バスのほかにトラムも走っている。
　駅からタクシーでセントピーターズ大聖堂近くまで行き、聖堂が見えたところでタ クシーを降りる。それからしばらく大聖堂を目指してキング・ウイリアムス通りを歩 く。中に入ってキリスト像やステンドグラスを見たかったのだが、ゴシック様式の堂 々たる大聖堂は門を閉ざしていて入れなかった。ウイーンのシュテファン大聖堂など に比べればずっと小ぶりだが、曇天を背景にすっくりと建っている姿は端整だ。
　大聖堂と道路を挟んである公園へ。高台にある公園は広々として眺めがいい。たど ってきたアデレードの街並が見える。空気は、やはり澄んでおいしい。月曜日のせい だろう、広々とした公園にはピースボートの仲間らしい人の姿以外、人の姿はなく、 静かだ。
　600種類もあるというユーカリの仲間だろうか、公園に巨大な木がそびえていた。 幹の直径が2メートルほどもあろうかと思われるかば色の木。枝がこれまた直径1メー トル近くありそうだった。
　地上に実が何個も落ちていた。ユーカリはオーストラリアに生育している樹木の４分 の３を占めるという。乾燥に強く成長が早いということで、パルプ原料や建材として も用いられているという。コアラがユーカリの葉を主食としていることは有名だ。
　大聖堂近くのフットボール競技場でトイレを借りる。競技場の外に出ると雨がパラ パラと落ちていた。当初は動物園に行きたかったが、雨のため断念して川沿いの美術 館、博物館に入る。隣合わせてアデレード大学の校舎もある。美術館には現代アート 、抽象画や抽象的な彫刻が多かった。美術館のカフェでコーヒーとマーフィンを頼む 。これが実にうまかった。オーストラリアでケーキとコーヒーに外れはない。長時間 歩いた疲れで体がずっしりと重く感じられていたが、コーヒーとマーフィンで元気を とり戻す。
　道路を挟んで歩道、街路樹、川がある。なかなかいいシチュエーションだ。
　博物館にはオーストラリア先住民のアボリジニーの生活用具、たとえば石器、石の ナイフや木製の魚を採る道具、精致を極めるタペストリ、工芸品などが陳列されてい た。
　1階には恐竜の骨とその模形。後でピースボート仲間の女性に聞いた話では、恐竜 の目にはオーストラリア原産のオパールがはめ込まれていたという。
　博物館を出た後、雨の中、川沿いの道を歩いて繁華街へ。スーパーで食糧品とワイ ンを買う。ここでも好物のマンゴーをしっかり確保した。
　駅でアウターハーバー行きの切符を買い、列車に乗るのにかなり手間どった。日本 と同様に半額にはなるのだが、その手続を駅員が理解できていなかった。
　さらに、乗ろうとした9番線のディーゼル車に乗り込む際に案内してくれた誘導員 が間違えて別の方面行きの列車に乗せられてしまい、相当数の日本人客が慌てて発車 間際にその電車を降りて、同じ9番線に入ってくるアウターハーバー方面行きの電車 に乗り換える。
　40分後、無事アウターハーバー駅着。オーシャンドリームが停泊する岩壁に着いた 。夕食時、レストランでアデレードワインの産地、バロッサバレーのオプショナルツ アーに参加した人たちの話を聞く。話だけじゃねぇ。

１月３０日　火曜日　晴

　昨夜から船が揺れ続ける。寒くて長袖シャツに上着を羽織る。寒さと揺れのため、 深夜しばらく眠れなかった。ガンガンとまるで船が岩にでもぶつかるような音と衝撃 。縦横の激しい揺れ。アデレード市内を１万歩以上歩き回った疲れもあって眠れるか と思ったが、そうはいかなかった。
　10時。ブロードウエイで高瀬　毅さんの講演、「長崎、消えたもう一つの原爆ドーム 」を聞く。印象深い話だった。1945年8月9日、浦上天主堂(うらかみてんしゅどう)上 空でプルトニウム爆弾は炸裂し、天主堂は一部の外壁を残して炎上倒壊した。周囲に あった石のマリア像も、顔は半分吹き飛び、手の指は第二関節で吹き飛び、半面が黒 焦げになっていたという。
　戦後、長崎被爆の承徴であるこの天主堂を、広島の原爆ドーム同様、被爆の遺稿と して残そうという意見と取り壊して再建しようという意見があった。
　1950年代から4期市長を務めた田川務市長は当初保存しようという意思をもって関 係方面に働きかけていたが、アメリカのミネソタ州セントポール市から姉妹都市にな ろうという申し入れがあり、市長がアメリカに渡って1か月、大歓迎を受けて帰国し た後、田川市長は被爆した天主堂の撤去と再建の方向に主張を変えた。これによって 1958年、教会と信徒は瓦壊した壁を撤去し、翌59年天主堂を再建したという。
　この後、市役所は原因不明の火事に見舞われ、天主堂にまつわる多くの写真、資料 が失われた。 最近になって30代の若者二人が、いまはない天主堂の遺構を、残された写真ほかの資 料をもとにＣＧで再現した映像を上映して講演は終わった。
　アメリカでは、広島・長崎への原爆投下について、あれは戦争を早く終わらせるの に有効だったという世論が長年にわたって優位を占めているという。原爆投下によっ て二つの街が被った未曾有の犠牲・被害については、いまだに国としてその責任を明 らかにはしていないし、もちろん謝罪もしてはいない。オバマ米前大統領が広島を訪 れた2016年5月の際にも、それは語られなかった。
　沖縄戦で２０万人もの犠牲者を出し、もはや降伏以外の選択肢がなかったにもかか わらず、日本政府は８月１３日まで無条件降伏を拒み続けた。陸軍の徹底抗戦論によ って、何十万人もの人々が命を絶たれたことは、悔やしい限りだ。 　私が家族4人で長崎を訪れたのは10年ほど前だった。そのとき、平和公園、原爆資 料館、再建された浦上天主堂をも訪れた。再建されてすでに50年を経過していた天主 堂は、手入れが行き届いて、経過した歳月を感じさせず奇麗だった。私にとって２度 目の長崎だったが、いずれのときも長崎は、国内屈指の観光地として装った、賑やか で奇麗な港街だった。
　1時、昼食の席でベルギー、ブリュッセルの弁護士、ウォルフガング・パーペさん に何日ぶりかで再会した。何と５か国語を話すというパーペさんは、日本の某大学の 先生をしてきたという。夕方、「民主主義の危機」という題で自主企画を開催すると のことで、パーペさんから出席の要請を受けた。楽しみだ。
　4時、会場は８階アトランティック。3０人ほどの参加者。パーペさんが少し巻き舌 の日本語で「いま民主主義は日本でも世界でも危機に頻しています」と話を始めた。 ここで彼は、自分が一方的にレクチャーするのではなく、標題の「民主主義の危機」 について、皆さんのご意見をお聞きしたいとのこと。
　しばらく発言者がなかったので、私が議論の口火を切った。現在の日本では、憲法 に謳われている「三権分立」は十分機能していない。ＥＵではポピュリズムが台頭し 、アメリカはまさにポピュリストの化身、トランプが大統領になっている。こうした 危機的状況にあって、いかに民主主義を守ってゆくか。難問中の難問だ。
　この私の意見に対して、日本は現在特に問題はなく、平和で治安もよく、よい国だ という意見が二人の出席者から出された。
　それはないだろうという思いから、私は以下のように反論した。
　まさに民主主義は危機的状況にあります。特定機密保護法、共謀罪(組織犯罪署罰 法)は一体何を意味しているか、よくお考えください。そうだそうだという声があち こちから上がった。
　日本の三権分立は制度上維持されているように見えますが、実は安倍自民党政権が 内閣人事局によって各省庁、多数派を占める国会、そして法務省を通して裁判所の人 事権をも握ることで、行政機関も国会も司法権も、独立した機能を失って政権に支配 されている。皆、政府の意向に唯諾々としてなびき、従っているわけです。いわば安 倍独裁政権と見まがうような状況にあるわけです。
　これに対して、「北朝鮮のこともある。国の内外で警戒を厳しくしなければならな い。それは当然だろう」という、ちょっと論点のずれた発言があった。
　これに対して私は、「そのような発想こそ、まさに民主主義の危機そのものです」 と反論。ここで会場のあちこちから拍手があったのには安堵した。
　これはアメリカのトランプ然りだし、ＥＵの保守派、イギリスのＥＵ離脱をめぐる 国民投票に大きな影響を与えたイギリス独立党のナイジェル・ファラージ、フランス 愛国戦線のマリーヌ・ルペン、あるいはアメリカのトランプ大統領といった保守派ポ ピュリストたちは、政権の民主的運営よりは強権的、独裁的な運営を目指していて、 まさに世界は保守化からさらに独裁化への潮流に乗せられようとしているのではない か。
　議論が盛り上がったところで、会場の利用時間が１時間であったこともあって、保 守派とリベラル派が意見を述べ合って、結論めいたものは出ないままパーペさんの自 主企画は終了した。さまざまな意見があっていい。こういうディベイトで無理に結論 を出すのは避けるべきだと私も思った。

１月３１日　水曜日　晴一時雨

　ビクトリア州の州都メルボルン港着岸。メルボルンは人口408万人で、シドニーに 次ぐオーストラリア第二の都市。
　寒かった。メルボルンは南緯37度で、北緯37度付近にある日本の私の郷里福島県と 赤道を挟んでほぼ対称の緯度にある。現在福島県は真冬だが、メルボルンは真夏。そ れがどうしてこんなに寒いのか。長袖シャツにウインドブレーカーを羽織る。 　9時半、下船。メルボルンの空気も、これまで立ち寄ったフリーマントルやパース 、アデレードの空気と同じく、すがすがしくておいしい。
　いつものように税関でチェックを受けた後、ビジターセンターで一日フリーカード を買ってトラム(路面電車)で市内へ。途中トラムを乗り換えて10時過ぎ動物園前の電 停に到着。この間、一時雨が激しくなったが、すぐにやみ、青空が広がる。しかし気 温はあまり上がらない。
　ウイークデーの午前中ということもあってか広い園内は人影が少なく静かだった。 寒いこともあって、雰囲気がどことなく一昨年11月に訪れたベルリン動物園に似てい た。キリン、シマウマのエリアを経て、タスマニアデビル、鳥のゲージ、カンガルー のエリアを見て移動。案内プレートや園内地図を頼りに広い動物園内を歩き回ったが 、会うのを楽しみにしていたコアラがなかなか見つからない。動物園のスタッフらし い人に尋ねてようやくコアラ舎にたどり着く。ところがフェンスで囲まれたエリアに コアラの姿は見当たらない。妻が見回して、ようやくそれらしい姿を見つけた。ユー カリの木の疎林に隣接した小さな穴に、尻を外に向けてもぐっていたのだ。どうやら 季節外れの寒さに、巣穴にもぐり込んでしまったらしい。
　この後、しばらく歩いてマウンテンゴリラのゲージを訪れ、見学者に説明している ナビゲーターの話を聞く。ゴリラの日々の生活ぶり、ゴリラがいかに人間に近い心を もっているか。ナビゲーターの女性は熱心に話していた。そういえば、上野動物園で 、失恋したゴリラが死んでしまったという話を聞いたことがある。ゴリラは、その顔 つきや体形に似合わずとても繊細な心の持ち主なのだ。
　12時過ぎ、動物園を出て再びトラムでメルボルン市内に向かう。なぜか中華料理を 食べようということになって、中華料理店で昼食。中華街といっても、往復4車線ほ どの通りに面して数十メートル、中華料理店が十軒ほど軒を並べているだけだ。その うちの一軒で食事をしていた初老のピースボート仲間の夫妻は、「おいしいですよ」 とその店の料理をすすめてくれた。ホッとしてテーブルにつく。しかし、横浜に長年 暮らして、折にふれて中華料理を味わっている身には、料理はいささか残念な味だっ た。
　昼食後、博物館を訪ねた。世界遺産のカールトン公園にあるメルボルン博物館は、 ビクトリア州内の花や動植物、化石、歴史、先住民アボリジニの文化などについて学 習できるディスカバリーセンターとしての機能を果たしているということで、是非見 学したかったが、予約が必要で、いきなり訪れた者は見学させてもらえないという。 事前の勉強不足でこれまた残念。
　目指した博物館に入れず、どっと疲れが出て足取りも重くなり、近くにあるメルボ ルン図書館に回って、若者が集うカフェに入り、チョコレートケーキとカプチーノを 注文。これがこの上なくうまかった。血糖値が下がったのと水分不足でボーッとして いた頭がたちまちはっきりし、体に力がわいてくる。この旅を通して、寄港地でいた だくコーヒーとケーキは元気の源だった。
　メルボルンに限らないが、オーストラリアの一つ一つのモニュメントの敷地は広く 、遠くから見えていても、日本の都会のように建物が密集しているわけではなく、目 的の建物までたどり着くのに５分、１０分と時間がかかる。市の中心部にある図書館 の周辺は結構な人出だった。メルボルン市役所のあるタウンホール、デパートを見て 歩く。タウンホール前には、ギターを弾きながらスペイン語で歌う若者がいた。この 街は、英語だけでなく、スペイン語も中国語、フランス語、そして私たちの日本語ほ かの言葉をあちこちで聞くことができた。まさに国際都市だ。肌の色も髪の色も目の 色も、違っていて当然。髪の色が茶色の生徒に「黒く染めろ」と迫るという日本の高 校の、何と愚かなことか。
　タウンホール前から109系統の電車で港に戻る。しかしここで予想外の関門に遭遇 。税関だ。入国するときは難なくパスしたのに、船に戻るときは大変だった。二人の 税官吏に身体検査をされた。手を上げろ、上着を脱げ、ポケットのものを全部出せと うるさいことこの上ない。相手が税官吏ではどうしようもない。諦めて指示に従った が、うんざりした。オーストラリアは税関のチェックが厳しいと聞いてはいたが、フ リーマントルでもアデレードでも、これほど厳しいチェックを受けることはなかった 。どっと疲れが出て、税関の建物からオーシャンドリームまでのわずかな距離を、重 い足を引きずるようにして歩いた。船室に落ち着いて妻が歩数計を確認すると、1万6 000歩も歩いたという。歩いて目的の建物にたどり着くのに時間を要し、あちこちで トラムを乗り替えたこともあってカウントが上がったのだろう。
　レストランでの夕食は野菜サラダ、ミックスフライほか。ほぼ毎日飲んでいる生ビ ールが１万６０００歩も歩いて乾ききった喉にはこの上なくうまかった。オーシャン ドリームのレストランは、初めて訪れる街を歩き疲れた私たちに、自宅の食卓に戻っ たような安心感をもたらしてくれる。食事をしながらテーブルを囲む人々と一日の体 験を語り合うのは楽しいものだ。

２月２日　金曜日　曇ときどき晴、一時小雨

　朝6時、タスマニア島ホバート港接岸。タスマニアはメルボルンから250キロほど南 下した南太平洋(オーストラリアでは南極海と称している)に浮かぶ島。オーストラリ アの一つの州になっていて、面積は90,758平方キロで北海道より少し小さい。私たち 日本人にとって北海道は島というにはあまりに広大だが、地理上の分類はやはり島な のだ。そのタスマニア島は、オーストラリアでは一つの州の区分になっている。人口 は５１万２０００人だから、５３１万人の北海道の１０分の１弱だ。オーストラリア 大陸もそうだが、自然が人間を圧倒している。人間はいくつかの小さな町にちらりほ らり住んでいるにすぎない。
　9時前ホバート港の埠頭に立つ。空は薄曇り。ポートステーションで地図をもらう。 道をあちこち回り、ビジターセンターで尋ねて乗るべきバスを探す。そこでたまたま 出会ったピースボートの仲間数人とともに20xのバスに乗る。
　タスマニアは世界自然遺産のクレイドルマウンテンやフレシネ国立公園のワイング ラスのような美しい曲線を描く白砂のビーチが延々と続くワイングラスベイ等、手つ かずの大自然がふんだんにある島だ。醜都はホバート、ほかにローンセストン、クラ レンスなどが主な町。
　ホバートでバスに乗った時点ではタスマニアデビルがいるという自然動物園に向か う予定でいた。島内に向かって走ること１時間。同行した5人が降りた所がOB美術館 で、私たちが目指した動物園ではなかった。
　4人のグループがタクシーに乗り換えて動物園を目指したが、私たち3人ともう一人 、旭川市から参加したという男性の4人で相談した結果、タクシーがいつ来るかもわ からないので、20xのバスで港に戻ることにした。オーストラリアとニュージーラン ドは英語圏で、自由行動で十分だろうと思っていたし、ピースボートの仲間には自由 行動をとる人がたくさんいたわけだが、やはり初参加で事情がよくわからない私たち には限界があった。
　ホバートの港に戻るとすでに昼食の時間だった。赤レンガの店々が並ぶサマランカ 商店街の屋外レストランで昼食をとる。ここで生ビールとスモークサーモンのオープ ントーストサンドを頼んだが、これがベリーデリシャス!　この旅で食べたすべての 料理の中でいちばんおいしかった。値段は１６豪ドル。現地で捕れるウエットのスモ ークサーモンはたっぷりで、野菜はレタス、セロリ、玉ネギほかの野菜がふんだんに 分厚いトーストに挟んであるのは、実にワイルドで、ソースもいい。これに生ビール の昼食は最高。子供の顔ほどもある大きなトーストサンドをあっという間に食べ終え た。
　昼食後、酒落た赤レンガの建物が建ち並ぶサマランカ・プレースを歩き、スーパー で買い物。牛乳、チーズ、はち密、その他。ケーキも買ってカフェへ。屋外のテーブ ルに着き、カプチーノを頼んでケーキを食べる。
　サマランカ・プレースを出て港に面して建つ博物館に入り、タスマニアアボリジニ ーの歴史、文化にまつわる展示を見る。タスマニアアボリジニーの歴史はオーストラ リア大陸のアボリジニー、あるいはニュージーランドのマオリ族同様、悲惨を極める 。アボリジニーは、18世紀まで永遠とも思われる平和な時の連環の中に生活していた 。しかし、19世紀に入ると、はるばる戦団を組んでやって来たイギリス軍によって皆 殺しに遭う。こん棒やブーメラン、石のナイフしか持たないアボリジーは、銃と剣で 武装し武力において何倍も勝っていた英軍にたやすく殲滅されてしまう。アボリジニ ーの人々は、銃の練習の標的にされてなぶり殺しに遭った人もたくさんいたという。 何という蛮行、何と悲惨な歴史だろう。ギャレット・ダイヤモンドの『銃・鉄・病原 菌』やロビンソン／アセモグル共著の『国家はなぜ衰退するのか〜』にも詳しく記述 されているが、人間の歴史は、他の民族より早く近代文明の所産である鉄製の剣や銃 を手に入れたイギリス、スペイン、ポルトガル、オランダといった国々が殺戮と略奪 をほしいままにし、アフリカでも南米でも北米でもアジアでもオセアニアでも、先住 民は殺され、捕えられて奴隷として売買され、土地と生産物を奪われ、支配と搾取に 遭って苦難の生活を強いられてきた。私たちはこの歴史の事実を忘れてはいけないし 、こうした歴史を修正しようとする勢力の隠蔽を許してはならない。
　博物館には、アボリジニーにまつわる展示のほか、ご当地タスマニアを象徴するタ スマニアデビルのはく製、映像ほか、盛りだくさんのタスマニアデビルの展示があっ た。黒くて、まさに悪魔のような顔つきのタスマニアデビルは体重10キロほどで、日 本の中型犬ほどの大きさだが、お腹の袋で子育てをする有袋類。肉食で食欲は旺盛、 一日に食べる量が自分の体重の40％にもなるという。この大食漢のタスマニアデビル が、ワラビーらしい小動物を食べている生々しい映像が紹介されていた。しかし、こ のデビル、タスマニアにしかいない絶滅危惧種ということで、大事に保護されている 。そのデビルの名の由縁である「悪魔のような鳴き声と姿」はYouTubeに載っていて 、その鳴き声は確かに猛々しく悪魔のようだ。
　隣の海の博物館も見学した。タスマニアは架つて捕芸の基地でもあったとのこと で、捕芸にまつわるさまざまな資料が陳列されていた。帆船の製造、南極にまつわる 展示もあった。
　博物館を出て船に向かう途中、カフェでアイスクリームを食べる。妻とラムレーズ ンとチョコチップのダブルを食べる。大きなカップに山盛りのラムレーズン＋チョコ チップのアイスクリームはこの上なくおいしかった。
　オーシャンドリームで向かい合わせの部屋で生活している２歳になる男の子が、マ マの押すバギーで港を散策していた。港の屋外ビヤホールには、何人ものオーシャン ドリームのスタッフがビールを飲んでいた。閉塞感の強い船内で長期間生活している 身には、港のありがたみがよくわかる。昼夜を問わず仕事にいそしんでいる様子のク ルーにとっては、その思いは乗客以上だろう。
　夜10時、ホバート出港。次はいよいよシドニーだ。

２月５日　月曜日　晴

　早朝6時シドニー着。アンカーが降ろされる音がガラガラ鳴り響く。オーストラリ ア大陸の南東部に位置するニューサウスウェールズ州の州都シドニーは人口463万人 で、オーストラリア最大の都市。南緯31度、東経151度の位置にある。
　8時過ぎ埠頭に降り立つ。接岸したのはハーバーブリッジやオペラハウスで有名な シドニー港のサーキュラキーから離れた、横浜でいえば本牧埠頭のような岸壁だった 。フェリーでシドニー港に向かう。20分ほどでシドニー港サーキュラキーの桟橋着。 オペラハウスは、夏空の下、岬の上に白く輝いてそびえていた。
　6分ほど歩いてオペラハウス到着。インフォメーション窓口で日本人ガイドつきツ アーを申し込む。オペラハウスは人気の観光スポットで、私たちがガイドツアーの申 し込みをしている間にも、10人ほどの団体が2つ、日本人女性のガイドさんに案内さ れてロビーを出て行った。
　オペラハウスは、ヨットの帆やシェルの形を組み合わせた外観が美しい高さ183メ ートルの大小4つのホールの複合体で、デンマークの建築家ヨーン・ウツソンの設計 になる。1959年から完成までに14年を要したという。途中ウツソンの辞任等、紆余曲 折を経て完成した20世紀を代表する建築物の一つで、世界遺産にもなっている。
　ベネロング・ポイントという岬の上に建つオペラハウスは、海を渡るハーバーブリ ッジ、海岸の遊歩道・公園とも調和し、シドニー港は、変化と色彩に富んだ世界の三 大美港の評価に恥じない美しい景観を見せている。
　見学の途中、オペラハウスからハーバーブリッジを見る。1932年に完成したという ハーバーブリッジはアーチ橋で、長さ1.5キロ、アーチトップの高さは135メートル、 中央付近にある展望塔は300メートル以上あるという。社線はハイウエイ、鉄道のほ か自転車歩行者用まであって、幅は48.8メートル。
　オペラハウスの見学ツアーは短縮バージョンで30分。実はここで大変ラッキーなハ プニングがあった。日本人女性ガイドさんの案内で入った大ホールでは、ちょうどシ ドニー交響楽団定期公演のゲネプロ(総合練習)が行われていた。聴衆のいないホール にピアノとオーケストラの音が鳴り響く。曲目はと耳を澄ます。モーツアルトのピア ノ協奏曲第16番だ!
　後でわかったことだが、ピアニストはエマニエル・アックス。聴衆の入っていない ホールに、モーツアルトの協奏曲は豊かに美しく響いていた。「コンサートホールは 、満員の聴衆が入ったときに音楽がいちばん美しく聴こえるように設計されている」 というのは、誤りだ。聴州のいないホールでは、ピアノ、弦、木管、金管の音がくっ きりと豊かに聴こえる。聴衆が入ると、その衣服と体に音は吸収されて、音楽は豊か な響きを幾分か減ずる。
　2月8日に予定している企画、「モーツアルト、ピアノ協奏曲の魅力」の企画にあま りにピッタリのコンサートではないか!　私の心は喜びに湧き立った。見学終了を待 ってガイドさんにチケット売場に案内してもらい、当日券の有無を尋ねると、何とま だ残っていた！　開演は夕方7時。妻が手にしたチケットを大事にバッグにしまう。
　幸せな気分を抱いて、ピースボート、Icanの集会に参加すべく日本領事館前の広場 に向かう。会場には現地で活動しているICANはじめ反核平和団体の人々、ピースボー トのスタッフ、私たちオーシャンドリームの乗客等々、さまざまな人々が集っていた 。私と妻、Oさんの三人は、プラカードやポスターを持って集会中、夏の日射しに耐 えて立ち続けた。
　ここでとても素晴らしい日本人女性に出会うことができたことも、モーツアルトの ピアノ協奏曲との出会いに続いてラッキーこの上なかった。妻が隣会った女性と話を していた。プラカードを持ちながら、60肩の痛みを互いに訴えていたという。 　川崎ピースボート代表、オーストラリア緑の党のスコットさんはじめ、大勢の発言 者の平和、核廃絶、反原発に関するスピーチが1時間半続いた。
　私たちが会場を去るとき、信子さんが、心もとなく行動している私たちに寄り添っ てあれこれサポートをしてくれた。初めてのシドニーで、とてもありがたい出会いだ った。サーキュラキーの駅から電車でセントラル駅まで行って、ライトレールでフィ ッシュマーケットへ。そこは何とも騒然としたまさに「いちば」で、大きな木造の食 堂スペースがあり、食材をいためる音、BGM、沸き上がる英語の会話、スタッフの間 では中国語が飛び交っている。そんな中で、魚介を串刺したのと大きなイカのリング 揚げ、ご飯を食べる。
　信子さんとアドレス交換をし、マーケットを出て再び電車で叩外のチャツウッドで 下車。Oさんの友達の女性、Mさんが出迎えてくれた。ここで信子さんとはお別れする 。握手して心からの感謝の言葉を述べた。
　Mさんのご主人が車で近くのデパートの駐車場で待っていてくれた。Mさんのご主人 は地元の高校の先生を退職後、日本でいえば再任用で週1、2回同じ高校で数学を教え ているという。
　10分ほどで換静な住宅街の一角にあるMさん宅に着く。芝生を敷き詰めた前庭から 玄関へ。間仕切りの少ない、ゆったりとしたつくりの家だ。リビングでいきなりウイ スキー、ビールの歓待を受ける。結婚して30年間、シドニーで生活しているというM さん。気さくな、それでいて上品な女性。母国日本からの友人をとても喜んでいる様 子だ。Mさんは以前、オペラハウスの観光ガイドをしていたこともあるとのこと。 「私はスコッチが大好きで毎日飲んでいます」というＭさんの言葉に励まされて、す すめられるままにスコッチのロックをいただく。4人で乾杯。妻とOさんはビール。
　日々の生活のこと、それぞれの家族のこと、現地オーストラリアのこと、日本のこ と、1時間ほど歓談してご主人の運転する車で送ってもらう。
　サーキュラキー駅前に開演7時の25分前に到着。車と人で混雑しているので、オペ ラハウス前まで車では行けない。思い思いに食事をし、グラスを傾け、人々がいこっ ている夕暮れの海辺の広場を私は妻の肘につかまり、走ってオペラハウスに向かう。 途中、ピースボートスタッフの若いカップルに出会う。「どちらへ?」と問われて、 「オペラハウスのコンサートに行きます」と走りながら妻が答える。 「いいですねぇ、行ってらっしゃーい!」と、若い女性スタッフの声を背後に聞きな がら走り、開演時間7時の10分前、ようやくオペラハウスに駆け込む。
　2階席の後ろの席に着けたときにはホッとする。座席二つ隣に、同じピースボート 参加メンバーの男性が2人座っていた。
　会場は2700人収容だから、かなり広いホールだ。開演前のホール内の雰囲気が、実 に明るく和やかだった。こういう明るさ、和やかさは、とりすました日本のコンサー トホールにも、ヨーロッパのコンサートホールにもない。
　演奏が始まる。オール・モーツアルト・プログラム。オペラ「コシファントッテ」 の序曲。ピアノ協奏曲第16番。軽快で優雅でチャーミングなモーツアルトだ。音は、 ゲネプロのときのほうがよかったが良い演奏だった。ちょっと驚いたのは、3楽章あ る協奏曲の一楽章ごとに相当数の聴衆から拍手が起こったこと。
　休憩が入って、次にモーツアルトの協奏曲第17番。これはさらに良い演奏だった。 アンコールにショパンの遺作のワルツを弾いたあたりは、エマニエル・アックス一流 の酒落か。
　モーツアルトの交響曲第39番はテンホを揺らしたりしない、実にオーソドックスな いい演奏だった。あちこちから「アンコール！」の声が飛び、拍手が長く長く続いた 。
　終了後、電車とタクシーを乗り継ぎ、1時間かけてオーシャン・ドリームに帰り着 く。

▽世界三大美港
グアナバラ湾(ブラジル、リオ・デ・ジャネイロ)
サンフランシスコ湾(アメリカ合衆国、サンフランシスコ)
ポート・ジャクソン湾(オーストラリア、シドニー)

２月６日　火曜日　晴

　シドニー　2日目。朝食ヲ済ませ、9時ホワイトベイの岸壁に降り立つ。
　今日はブルーマウンテンズを訪ねる予定。タクシーでセントラル駅まで出て、電車 で大峡谷ブルーマウンテンズのあるカツゥンバ駅に向かう。ところが、港のタクシー 乗場で思いがけないトラブルに遭遇した。岸壁に接岸しているオーシャンドリームの 隣に、オーシャンドリームより大型の客船が接岸し、その乗客を誘導してきたナビゲ ーターらしい数人の白人女性が、港のタクシー乗り場を独占してしまい、オーシャン ドリームの乗客たちは歩道に並んだままタクシーの利用順を後回しにされた。事情を 知ってか知らずか、当該客船の乗客たちがタクシーに乗り込んで次々に去っていく。 「Not discrimination!」「パブリックなタクシー乗り場を独占するな!　公平に利用 させてくれ、差別するな」といった私たちオーシャンドリーム乗客からの英語の抗議 の言葉は、ナビゲーターたちに無視された。当該女性ナビゲーターと押し問答の末、 待つこと30分近く経って当該客船乗客たちの姿があらかた見えなくなってから、私た ちはようやくのことで7人乗りのタクシーに乗ることができた。差別や排除は、世界 中どこの国でも起こり得ることを実感させられた出来事だった。
　それにしても、私たちの抗議を無視し続けた女性ナビゲーターたちの傲慢な態度の 根拠は何か。白人の、有色人種である日本人への差別意識か。単に自分たちの「お客 様」を優先させようという偏狭なビジネススピリッツの表れか。その両方の思いが混 交した行動ではなかったかと思うとともに、そういう状況に立たされたとき、抗議し 、自己主張する意思と言葉を心に備えておくことがいかに大事であるかを改めて認識 した。謙譲の美徳も結構だが、不当な扱いを受けて抗議することなく従ってはいけな い。
　タクシーはラッシュに巻き込まれることなくスムーズにセントラル駅に到着し、10 時12分発のカツゥンバ方面行き電車に間に合った。電車はJRのローカル線の車両と同 じボックス対面型。セントラル駅からカツゥンバまでは2時間。電車の車窓から望む 風景は、道路、住宅、教会、林、牧場、森と変化に富んでいた。
　12時過ぎカツゥンバ着。ブルーマウンテンズまでは駅から歩いて1.5キロとのこと で、シャトルバスには乗らず、歩いてブルーマウンテンズに向かう。緩やかな上り坂 を歩く。途中、スーパーで昼食用のパンや飲み物を買う。ここで昨日、フィッシュマ ーケットで会った2人の男性ともう一人、先日タスマニアで出会った男性と出会う。 一緒に昼食をとりましょうと誘われ、途中にあった公園のあづま屋に入って先ほどス ーパーで買ったパン、飲み物、ハム、チーズほかの昼食。男性の一人、関西弁の彼は 、電車の中で財布をなくしたという。「ひどい目に遭いましたね」と私。日本を遠く 離れて大事な財布をなくすというのは、大変な痛手だ。
　食後さらに歩いてようやくブルーマウンテンズに到着したのは、1時過ぎだった。 バスが何台もひっきりなしに広い駐車場に出たり入ったりしている。そこここにガイ ドに引率された人々が、さまざまな国の言葉で話しながら移動している。
　谷底からの高さ数百メートルというジャミソン渓谷の断崖が続いていて、崖にはユ ーカリの林。このユーカリから蒸発する油分が太陽の光に反射して青く輝くのが、「 ブルーマウンテンズ」の名前の由来だという。
　スリーシスターズの岩というのがあった。伝説の岩で、魔物に三人の娘をさらわれ ることを恐れた父親が、三人を岩に変えて隠し、自分は鳥になって洞掘に隠れた。そ れで魔物からの難は免れたが、父親は人間に戻ることができず、娘たちは岩になった まま現在に至っているという伝説の巨大な3つの岩。この一帯がブルーマウンテンズ 国立公園で、世界遺産にもなっている雄大な景観を見せてくれる。
　ブッシュランド、滝、ユーカリの林。谷を下りて行く階段やロープウェイもあると のことだったが、私と妻はレストハウスにとどまった。またまたアイスクリームを食 べる。
　3時過ぎ、昼食を一緒に食べた3人の男性とともに階段を下りて行ったOさんが戻っ たのを機に、疲れてもいたので駅までシャトルバスに乗り、電車でセントラル駅着。 セントラル駅からタクシーに相乗りでホワイトベイのオーシャンドリームに帰り着い たときは午後7時を回っていた。
　オーストラリアに入ってから、英語圏であり治安もよいのでオプショナルツアーで はなく自由行動を選択してきたが、タクシー代を節約するのと安全にも考慮して、よ く相乗りして目的地に向かう人が多かった。タクシー乗場で「一緒にどうですか?」 と気軽に声をかけ合って利用できたことは新たな友ができるチャンスにもなって、と てもよかった。

２月８日　木曜日　晴ときどき曇

　オーシャンドリームは昨夜遅くオーストラリア最後の寄港地シドニーを出港し、タ スマン海をニュージーランドに向けて航行している。大陸の北の洋上を西に進んでい るというサイクロンの影響もあって波は荒く、船は揺れ続けている。
　2時40分から、8階バイーヤで私の自主企画『モーツアルト、ピアノ協奏曲の魅力』 を開催。中規模のレストランほどの広さの部屋に、数十人分のテーブルと椅子のほか にアンプ、CDプレーヤー、スピーカーと、いずれもかなり古いTANNOYのオーディオシ ステムが揃っていた。毎夜配られる船内新聞に私の企画の知らせが載ったとき、はた して聴きに来てくれる人が何人いるだろうかと思案した。誰一人来ないということは ないだろうけれども、『モーツアルト、ピアノ協奏曲の魅力』というタイトルは、は たして…?。
　ところが、開いてみると、何と来場してくれた方は30人を超えていた。これで元気 をいただいて、私の活舌は滑らかになった。
　開演前の導入として聴いていただいたのは、ピアノ協奏曲21番ハ長調の第二楽章。 モーツアルトのピアノ協奏曲の中で最もポピュラーな楽章の一つで、スウェーデン映 画『短くも美しく燃え』のサウンドトラックにも使われた名曲。この一楽章が終わっ たところで私はマイクを持って立ち上がった。
　「今日は私の企画にお運びいただきましてありがとうございます。このクルーズへの 参加が決まったとき、オセアニアの空と海にモーツアルトのピアノ協奏曲ほどよく似 合う音楽はないだろう。軽快でチャーミングで優雅なモーツアルトのピアノ協奏曲を 皆さんにご紹介し、一緒に聴ければうれしいと思って企画しました」とご挨拶。続け て、「実は15日、幸運にもシドニーのオペラハウスで、モーツアルトの16番と17番の 協奏曲をエマニエル・アックスのピアノ、デービッド・ロバートソンの指揮で聴くこ とができました」とご報告。
　乗船する前に用意した自作のモーツアルトの生涯と作品に関する資料A4判2枚を妻 に配布してもらう。(本稿末尾に添付)
　ここでモーツアルトの生い立ちと音楽について第一回目のお話。
「モーツアルトは1756年1月27日、オーストリアのザルツブルグに生まれました。父 はレオポルト、母はアンナ・マリア・ペルトル…。モーツアルトより2か月半前、マ リー・アントワネットは女帝マリア・テレジアの12番目の王女として生まれました。 一人は「ミューズの子」と賞賛される音楽史上に名を止どめる作曲家として、一人は フランスのブルボン王家に14歳で嫁いだ後「ベルサイユのバラ」と称賛された悲劇の フランス王妃。この二人のオーストリア人の命は、奇しくも18世紀後半に重なってい ます。そしてこの二人は、1772年、ウイーンのシェーンブルン宮殿の御前演奏会で出 会ったというエピソードがあります」
　2曲目はオペラハウスで演奏を聴いた第17番ト長調の第3楽章。明るく軽快な曲奏の 一例として聴いていただいた。音源はいずれも私のお宝CDである、アルフレート・ブ レンデルのピアノ、ネビル・マリナー指揮アカデミー・セントマーチンフィールズの 全集から紹介。最初にこの全集を手に入れたのは1987年のことだった。クルーズに携 行したのは3度目に手に入れた全集で、初代の全集も毎日妻と朝食をとりながら聴い ている。30年間聴き続けてパッケージはボロボロで、10枚セットの2枚ほどが行方不 明になっているが、最初に聴いたときの水々しさ、美しさを保って音質が全く劣化し ないのは何と素晴らしいことか。
　第3曲目は第15番変ロ長調の第2楽章。「これほどオセアニアの美しい空と海、緑豊 かな自然に合う音楽はないと思います」と紹介。モーツアルトがコンスタンツェ・ウ エーバーと結婚した2年後、ウイーンで神聖ローマ帝国の皇帝ヨーゼフ二世(マリー・ アントワネットの兄)はじめ、多くの聴衆を集めて催した演奏会で、モーツアルト自 身のピアノと指揮で演奏して絶賛を拍した時代の作品。1784年、モーツアルトが28歳 のときに作曲した6曲のうちの一曲。軽快でチャーミングで優雅。ミューズの子と称 されるモーツアルトの音楽を象徴する一曲だ。特に第二楽章の美しさは比類ない。聴 きながら先日訪れたパース、キングスパークの空と花と緑に満ちた風景を連想する。 　最後に、これまた有名な第20番二短調の第一楽章。モーツアルトのピアノ協奏曲の 中では24番ハ短調と並んで短調で作曲された、暗い不安に満ちた音楽。ベートーベン はじめ後世の作曲家に大きな影響を与えたモーツアルト29歳の作品だ。クララ・ハス キルほかの演奏になる名盤も数多い。その年から35歳で亡くなる1791年12月5日まで 、モーツアルトは病気がちの妻コンスタンツェを抱え、貧困と病との二重苦と闘いな がら、まさに命の限り作曲を続けた。
　紹介したい曲もお話したいエピソードもたくさんあったが、約束の50分で終了。思 いのほか好評で、会場から是非次回もという声が多く寄せられた。好評のうちに終了 できたについては、オーディオの操作をし、資料をコピー配布し、会場に気を配って くれた妻に感謝したい。

２月９日　金曜日　曇〜晴

　午前10時からブロードウェイで次に訪れるニュージーランドの説明会。ミルフォー ドサウンド、リトルトン港、クライストチャーチの航路説明。ミルフォードサウンド は世界屈指のフィヨルドで、海から湾の奥深く入っての眺望がすばらしいという。大 型の客船でもタグボートの誘導を得てフィヨルドへの進入が可能だというので、スケ ールの大きさを感じる。
　クライストチャーチは2011年2月22日、つまり東日本大震災3.11の直前、大きな地 震に見舞われてたくさんの建物が倒壊し、日本人の留学生28人を含む多くの犠牲者が 出た街だ。日本の東北地方の復興はまだまだだが、はたしてクライストチャーチの復 興は進んでいるだろうか。
　今日は私の企画『モーツアルト、ピアノ協奏曲の魅力』第2回目。午前11時半、昨 日と同じバイーヤで開始。
　最初に昨日聴いていただいたピアノ協奏曲第20番ニ短調第一楽章のアレグロを受け て、20番の第2楽章ロマンスを聴いていただく。暗い緊張感と不安、欝屈した怒りや 悲哀が表れては消えてゆく。細かに転調を繰り返しながら疾走する第一楽章とはうっ て変わって、第二楽章は明るく澄みきった秋空を連想させる緩徐楽章。激しい第一楽 章から、青く高い秋空に解き放たれるような第二楽章に移ってゆくコントラストは実 に見事です。この曲は映画『アマデウス』のエンディングにも流れていました。
　次に第22番変ホ長調の第2楽章アンダンテを聴いていただく。モーツアルトは30歳 前後から貧困と病に苦しめられるようになります。転調のたびに明と暗が交互に表れ ては消えてゆく音楽を聴くうちに、心が澄んできて、やがて我知らず涙していること もあります。
　ここでマリー・アントワネットについてお話。ロココの女王といわれ、18世紀後半 、ヨーロッパのファッションリーダーでもあったマリー・アントワネットは、22歳を 過ぎて二児の母となってからは、それまでの遊興と奢侈に明け暮れた生活から、小離 宮「トリアノン」での側近、気の合ったとり巻きに囲まれた生活を送ります。恋人の ペルゼン伯爵も近くにいて、マリー・アントワネットが最も幸せな時代だったようで す。
　ところが反王制の市民・農民等の下層階級から成る革命勢力によるフランス革命(1 789年〜)において反王制派に捕えられ、38歳で処刑されたことは皆さんもご存じのこ とと思います。モーツアルトが病に倒れ、35歳で亡くなった1791年の2年後のことで す。
　今思えば、イギリスが名誉革命(1688年)を経てすでに成し遂げていたような立憲君 主制と議会制民主主義への平和裡の移行も可能であったと思われますが、ルイ１６世 、マリー・アントワネットとその家臣いわゆる王党派と呼ばれた人々に、革命の危機 を回避して、平和裡に立憲君主制・議会制民主主義への移行を図る政治的才はなく、 うち続く流血の狂気にとりつかれた革命勢力による処刑を免れられませんでした。
　マリー・アントワネットは、離宮トリアノンでの生活の中で、当時話題になったボ ーマルシェの「フィガロの結婚」を上演して、自らも出演しています。モーツアルト はこのボーマルシェの却本をもとに、オペラ史上の最高傑作の一つ『フィガロの結婚 』を完成させています。このフィガロには、フランス革命につながる、王・聖職者・ 貴族・平民という旧弊な身分制に対する痛烈な批判も込められていたのです。
　最後に第23番イ長調第1楽章をピアノ、マウリッツィオ・ポリーニ、カール・ベー ム指揮のウイーンフィル盤で聴いていただいた。この演奏は、軽快さと優雅さと憂愁 とで織り成された名演で、まさに音楽美の極致であり、私たちに残されている録音の 最高傑作だと思います。
　終了後、よろしかったら夜、酒でも飲みながら旅について、音楽について語り合う ことができれば嬉しいですとお誘いすると、何人かの方が歩み寄ってきてくださった 。
「是非また聴かせてください。続けてください。是非またお願いします」といった言 葉をいただいた。「学者さんですか？　大学の先生ですか？　演奏しているのは誰で すか？　そのＣＤはどうしたら手に入りますか」といった賛辞やら質問もたくさんい ただいた。

２月１０日　土曜日　晴

　早朝6時、船内放送。「南緯45度付近のタスマン海を経てニュージーランドのフィ ヨルド、ミルフォードサウンドを航行予定でしたが、ニュージーランド当局からの通 告を受けて、船内検疫のため、リトルトン港に先に入港して沖合に停泊し、ミルフォ ードサウンドは日を改めて水先案内の先導を得て航行します」とのこと。
　これはオーストラリアでもそうだったが、ニュージーランドは国外から持ち込まれ る動植物・昆虫・害虫、病原菌等の防疫には大変神経質で、港の沖合に船を停めて入 念な防疫検査を行うことがあるという。農産品の輸出が主要産業の一つになっている 両国としては当然の措置といえるだろう。
　朝、レストランで食事をしながら周りの人々と話を交わす。2月8日、9日に開いた 私の企画『モーツアルト、ピアノ協奏曲の魅力』に関する話題で盛り上がる。
　企画終了後の会場といわず、私の部屋まで訪ねて見えて名刺を所望される女性もお られた。昨日の午後ジムでトレッドミル上を歩いていると、隣で歩いていた女性が「 モーツアルト、ありがとうございました。音楽もお話もとても素敵でした」と誉めて くださった。つたない私の話などはともかく、軽快で美しいモーツアルトの音楽の素 晴らしさを知っていただけたことは嬉しかった。夕食時にも、何人もの人から、「と てもよかった。またお願いしますよ」といった言葉をいただいた。
　さらに、二日とも聴いてくださっていたという広島原爆の被爆者である三宅信夫さ んとレストランで行き合い、私のほうから、お聴きいただいてありがとうございまし た」と、笑顔の三宅さんにお礼を申し上げて握手をしていただいた。妻は、いつも渋 い表情の三宅さんが、音楽を聴いているときは、とても和やかな表情をしておられた という。
　この日の夜、昨日の企画の際に「酒でも呑んで語り合いませんか」という私から の呼びかけに応じてくださった方々と私たち夫婦と、９階の波平でビール、ウイスキ ーで乾杯。まずＩさん、しばらくしてＷさんが友達のＳさんとともに見える。ここか ら二時間余、それぞれの故郷と音楽について談笑。Ｉさんは千葉の人、秋葉原に出掛 けては材料を集め、自分でスピーカーを作っているという究曲のオーディオ・マニア 。Ｗさんは山形でIT関連会社に勤めていたという。JBLの大型スピーカーや真空管ア ンプを持っているというオーディオマニア。もう一人は、Ｗさんと同郷で、元国鉄職 員の自作農、有機農方を営んでいるという男性のＳさん。「自ら有機農法で栽培した 野菜を食べているから元気ですよ」と、ウイスキーのボトルを空けてはキープしてい るという。彼は乗船してから毎日角瓶を飲み続けているというから恐れ入る。私はＷ さん、Ｉさんの郷里とは県境でつながっている福島県会津若松の出身、妻は生まれも 育ちも横浜の浜っ子。酒量とともに話が盛り上がる。
　どんな音楽が好きかという話になる。Ｉさんは、昨日バイーヤでも挙げていた「ブ ルックナー」。その言い方が実にとつとつとしていて、ああ、この人は本当にブルッ クナーが好きなんだということがよくわかる。「ブルックナーの８番、いいよなぁ」 と、自分に言い聞かせるようにボソッと話す。
　Ｗさんは、ジャズ、クラッシック、何でも聴く。たとえば、「エラ・フィッツジェ ラルドとサッチモがデュエットしている『サマー・タイム』は最高だ」とか、「マー ラーの交響曲第５番の第三楽章、アダジエットの終盤の弦の響きはたまらない」とマ ニアックこの上ない話。Ｓさんは、私はカラオケ派で、いいオーディオでカラオケが 歌えれば最高」とのこと。２時間余、楽しく呑みかつ語り合った。音楽は心地よく人 と人をつないでくれる。

２月１１日　日曜日　雨〜曇

　５番目の訪問国、ニュージーランドへ。ニュージーランドは古くはオーストラリア のアボリジニ同様、マオリ族やその他ネイティブの人々が暮らす未開の地だったが、 オランダ人のアベル・タスマンが1642年、２隻の船で南島と北島の西海岸に着いて以 後、1769年、イギリス人ジェームズ・クックが、島の調査を行い、1840年、イギリス 軍は圧倒的な武力をもって先住民族マオリを制圧し、不平等極まりないワイタンギ条 約を締結し、現在のニュージーランドを形成する島々をイギリス直轄植民地とした。 これは17世紀〜20世紀前半における「ヨーロッパ列強による侵略と支配の一結果であ る。
　国名のニュージーランドは、英語で、「新しい海の島」Nieuw Zeeland”に拠ると いう。それから107年後の1947年、つまり第二次大戦後、ニュージーランドはイギリ スから独立を果たす。面席は268,680平方キロで日本の４分の３ほど。北島と南島の 大きな２つの島と多くの島々から成り、人口は約４７０万人。
　今日訪れるクライストチャーチは南島にある。クライストチャーチの人口は３４万 人。ニュージーランドで２番目に人口の多い街。
　昼食を終えた1時半、リトルトン港着岸。リトルトンは南極観測の前進基地の町の 役割を果たしてきた港町で、昔は南極海での捕芸の基地にもなっていたという。
　激しい雨の中を下船し、税関を経て、路線バスの停留所でバスを待つ。オプショナ ルツアーの予約は日程がずれたためすべてキャンセルになった。
　雨と風が激しさを増して傘が使えずウインドブレーカーのフードを被るが、全身ズ ブ濡れになる。それでも3時前、ようやく到着したバスに乗り込むことができた。料 金は片道4ニュージーランドドル。
　40分近く、ほとんど直線の道路を走ってクライストチャーチに着く。クライストチ ャーチのバスターミナルに降り立ったときには雨はほとんど上がっていた。
　バスの中で学生だという日本人の若い女性３人と出会う。2011年2月22日、クライ ストチャーチはM6.1の大きな地震に見舞われ、ビルの倒壊等で日本人留学生28名を 含む185人が亡くなり、300人以上が負傷、200人以上が行方不明になった。バスの中 で会った３人は、こちらにお住まいですかという誰かの問いに、「留学生です」と屈 託なく答えていた。私は2011年2月の震災の報道に接したときに感じた心の痛みを思 い返した。若い人が亡くなるというのは、たとえ一人であっても痛ましさは大きいの に、異郷での28人の死はあまりに重く辛い。
　バスターミナルを出て町の中心にあるという大聖堂を目指す。日曜日のせいか、街 を行く人影も車も少なかった。途中、壊れたままのレンガ造やコンクリート造りの建 物が目についた。瓦礫はきれいに撤去されていたが、大聖堂はじめ、壊れた建物はそ のままになっているものが多かった。規模は違うが、その17日後に日本が遭遇した東 日本大震災の傷跡と同じで、復興は道なかばだ。後に船のレストランで耳にした話だ が、11年2月の震災前に訪れたことのある女性は、公園が多く、花と緑に囲まれた美 しい街のあまりの変わり様に、涙がこぼれたという。
　地震で倒壊した旧大聖堂は、地震の被害をそのまま止どめてそこにあった。折れて 落下した大聖堂の千塔に立てられていたという大きな十字架が痛々しく片隅に置かれ ていた。
　大聖堂の敷地内に建てられた紙製の仮カテドラルに入らせていただく。この紙製の カテドラルは、日本人建築士の設計施工によって建てられたという。 　入口を入ったところで、現地の人らしい女性が、「ジャパニーズ？」と笑顔で問い かけてくれた。現地の人々にとって、現地で震災の被害に遭った日本の若者たちと、 間もなく発生した東日本大震災の未曽有の被害に、何がしかの縁を感じている人も少 なくないようだ。
　午後４時過ぎのカテドラルでは、賛美歌の練習をしていた。中学生か高校生の十代 の少女たちの歌声は、ひれ伏して聴きたいほど美しかった。私は思わず目を閉じて合 掌した。
　若くして亡くなった日本人留学生28人のことは、現地の人々の心に印象深く止どま っているようだ。亡くなった留学生たちとゆかりのある人々が訪れることもあるのだ ろう。
　椅子に腰を下ろして少女たちの歌声を聞く。本当に、何と澄みきって美しい歌声だ ろう。私は、犠牲になった28人の日本人留学生に向けて、いや、すべての地震の被害 者の冥福を祈って再び合掌した。日本人建築家の考案になるという紙でできたカテド ラルは３０年以上風雨に耐えられるだろうとのことだ。
　教会を出てビジターセンターへ。妻がポストカードを買い、アイスクリームを注文 する。チョコバニラ。ニュージーランドのアイスクリームもオーストラリアのそれに 負けずにおいしかった。
　クライストチャーチは公園と緑の街だという。たくさんの公園があり、緑豊かな街 だという。その公園と緑を楽しむには、時間がなさすぎた。
　スーパーで買い物をして、6時、バスターミナルへ。幸い6時10分のリトルトン行き バスに間に合った。７時、オーシャンドリームに帰船。９時、船はリトルトンを出港 してミルフォード・サウンドに向かう。

２月１３日　火曜日　曇〜晴

　朝６時、オーシャンドリームが世界自然遺産のフィヨルド、ミルフォード・サウン ドに入るというアナウンスがあり、身支度もそこそこに船室を出て９、１０階の甲板 へ。早朝、小雨が落ちているにもかかわらず、大勢の人がカメラやスマホを手にデッ キの手摺に身を寄せている。ミルフォードサウンドはニュージーランド南島の西岸に あるフィヨルド。
　ニュージーランド南島の自然は日本の自然によく似ている。南緯４４度、東経１６ ６度で、赤道を挟んで北海道北部とほぼ等距離の位置にあって、日本との時差は２時 間。日本より２時間早く日付が変わる。周りはアンダマン海、南極海、南太平洋。南 島の周囲はフィヨルド、リアス式海岸と変化に富み、ミルフォード・サウンドは海岸 から船で４０キロも遡上できる。スカンジナビア半島、グリーンランド、アイスラン ドのフィヨルドと並ぶ、世界屈指の広大なフィヨルドだという。
　朝６時、オーシャンドリームが世界自然遺産のフィヨルド、ミルフォード・サウン ドに入るというアナウンスがあり、身支度もそこそこに船室を出て９、１０階の甲板 へ。早朝、小雨が落ちているにもかかわらず、大勢の人がカメラやスマホを手にデッ キの手摺に身を寄せている。ミルフォードサウンドはニュージーランド南島の西岸に あるフィヨルド。
　ニュージーランド南島の自然は日本の自然によく似ている。南緯４４度、東経１６ ６度で、赤道を挟んで北海道北部とほぼ等距離の位置にあって、日本との時差は２時 間。日本より２時間早く日付が変わる。周りはアンダマン海、南極海、南太平洋。南 島の周囲はフィヨルド、リアス式海岸と変化に富み、ミルフォード・サウンドは海岸 から船で４０キロも遡上できる。スカンジナビア半島、グリーンランド、アイスラン ドのフィヨルドと並ぶ、世界屈指の広大なフィヨルドだという。
　ニュージーランド南島は内陸にも変化に富んだ自然が見られる。南島の最高峰は3, 754メートルのクック山（マオリ語ではアオラキ)を中心としたマウント・クック国立 公園で、3,000メートル級の山々が18もそびえている。日本でいえば、長野県を中心 に周辺の６つの県に山並が連なる日本アルプスにたとえられる、山と渓谷の自然豊か な島だ。スキー場もたくさんあって、北半球が夏のとき、こちらは冬で雪があり、ス キーができることで人気が高い。
　ミルフォード・サウンドは、そのようなニュージーランド南島西岸にあり、国立公 園を形成している。オーシャンドリームは、ゆっくりとフィヨルドをパイロットボー トに曳かれて行く。雨に煙って遠景は見えないが、緑に覆われた険しい山の連なりや 、山肌を流れ落ちる滝が船の左右両舷から見える。海の色は深い。ミルフォード・サ ウンドは、年間7000-8000mmもの降水量があり一年の3分の2は雨の日。雨の度にいく つもの滝が一時的に生まれ、雨がやむといつの間にか消えているという。中には落差 が1000メートルを越える滝もあるとのこと。
　湾から入って河口を遡っていく水域には、クジラ、イルカ、アザラシ、ペンギンな ども生息しているといわれ、現に、「クジラ、潮吹いてる！」という声や、「あれ、 アザラシじゃない？」という声も聞こえる。
　この変化に富んだ自然に惹かれて、ミルフォードサウンドには毎日何千人もの観光 客が訪れるという。現に、フィヨルドのほぼ中央を曳かれていくオーシャンドリーム よりずっと小型の観光船、ボートが、滝が落ちる断崖下付近やあちこちに数えきれな いほど見える。小雨が降っている滝は水かさが増して、雄大な風景は見事だ。
　11時、オーシャンドリームは一旦フィヨルドの外に出て、午後、再びビルフォード ・サウンドに入る。またまた11階から7階までのデッキは大混雑。かなり違うと思う が、「瀬戸内海のようだ」という声が聞こえた。両岸の風景は、高さ1キロもある岩 の上から滝が落ちていたり、巨大な岩が連なり、緑に覆われ、変化に富んだ風景。ま たまたイルカの群やアザラシの姿も見える。小さな遊覧船、カヌー、ボートに乗った 観光客の姿も数多く見える。水上からの眺めが雄大でいちばんいいようだが、小型機 による遊覧飛行もあるという。朝方雨が降っていたが、午後にはほぼ上がり、青空も のぞいている。風はしっとりと肌に馴染んであくまで清涼だ。自分が大自然と一体で あることがこの上なく心地よい。

２月１５日　木曜日　晴

　快晴の朝。遥かに水平線が見えるとのこと。オーシャンドリームはニュージーラン ド北島のオークランドに向かっている。
　妻がもらってきた新聞に、オリンピックの記事。私は、韓国のピョンチャンで冬季 5輪が行われていることをすっかり忘れていた。例年なら、オリンピックが始まると 私もかまびすしい報道のただ中にどっぷりとつかって、誰が勝つか、金メダルを取る かとても気になって中継を追いかけていたものだ。それが、クルーズ船に乗って日本 を遠く離れ、意識してニュースから遠ざかっていると、オリンピック期間中、国中が 大変な興奮状態に陥っていたこと、高揚するナショナリズムにあおられていた自分に 気づかされる。かつて誰かがファシズムに陥った国の大衆の意識コントロールのツー ルとして、セックス・スポーツ・スクリーンの三つを挙げていた。確かにナチスはこ れらを巧みに使って人心を操り、ドイツと世界を破滅の淵に陥れようとした。この旅 は、そういうスポーツが秘めている魔力から身を遠ざけてオリンピックを考えるよい 機会でもあった。国会における、愚劣な政治家と官僚の欺瞞だらけの釈明を聞かずに 済んだことは、帰国後に知った。
　3時10分からブロードウェイで『クラッシック音楽の楽しみ』を開催。過去２回の 『モーツアルト、ピアノ協奏曲の魅力』の好評を受けての３度目の開催だ。このホー ルには本格的なオーディオシステムが設置されていて、音響は先のバイーヤよりずっ と良い。
　そんなことも勘案して、少しプログラムを変えた。導入にモーツアルトのピアノ協 奏曲第15番変ロ長調第二楽章を聞いていただく。広大な海、大地、あるいは山の連な り、雄大な自然を気球に乗って俯瞰しているときにピッタリの曲だ。
　２曲目からは19世紀ドイツ・オーストリア、ロマン派の音楽を解説を交じえて聴い ていただいた。
　19世紀に入ると、時代のうつり行きとともに、教会や王候貴族のためのものであっ た音楽は、産業革命の進行とともに各街々に台頭してきた商人、技術者、教育や出版 にかかわる文化人、学生等、一般市民が身近に楽しめるものになっていき、教会や王 候貴族の庇護の下に甘んじていた作曲家・演奏家たちは、より広いフィールドで活躍 するようになる。その最初の人はご存じのベートーベンだが、ベートーベン以後、シ ューベルト、シューマン、メンデルスゾーン、リスト、ワーグナー、ヨハン・シュト ラウス、ブラームス、ブルックナーといった大作曲家たちが次々に新しい音楽を世に 送り出すようになる。
　そして音楽の思潮、作法は古典派を越えて、ロマン派へ、形式にこだわらないより 自由な表現、ときに艶かで官能的な表現をも宿した大きなうねりをもった音楽へと変 容していく。
　１９世紀に入ると、ドイツ・オーストリアの主要な街の間には鉄道が敷設され、人 の交流は飛躍的に増え、音楽は多くの市民に愛され、現在日本で生活している私たち が「クラッシック音楽」と呼んでいる音楽は、周辺のフランス、チェコ、ロシア、そ の他の国々にも波及して、全盛期を迎える。 　そのロマン派全盛期に作曲された中から、まずシューマンのピアノ協奏曲を聴いて いただいた。ローベルト・シューマン(1810年〜1856年)は、ドイツのライプツィッヒ 近くの町で生まれ、ライプツィッヒ大学で法学を学んでいたが、音楽に対する熱い思 いに駆られて作曲家になる。シューマンのピアノ協奏曲はショパンのそれと同様、ロ マン派を代表する作品として人気が高い。
　シューマンは、ライプツィッヒで師事していた音楽家のフリードリヒ・ヴィークの 娘、クララ・ヴィーク(1819年〜1896年)に出会う。クララは、父フリードリヒの教育 を受け、子供のときからピアノの天才と称賛されていた。若いシューマンとクララは たちまち恋に落ちて結婚しようとするが、フリードリヒの反対に遭い、裁判に訴えて 勝訴し、1840年晴れて結婚する。まさに１９世紀ロマン派の音楽が体現していた「自 由」を全うした結婚であった。
　次に、このシューマン夫妻によって作曲家としてのデビューを果たすことができた のがヨハネス・ブラームス(1833年〜1897年)である。ブラームスは、北ドイツハンブ ルグの貧しい音楽家を父に、洋服の仕立てをする女性を母として生まれたが、幼少の 頃より音楽にいそしみ、夜のレストランや酒場でピアノを弾く等しながら家計を助け 、やがて出会うシューマンにその作曲家としての才能を見出され、世に送り出しても らう。やがてシューマンが精神の病に倒れて46歳の若さで他界した後も、ピアニスト として演奏活動を続けて７人の子を育てなければならなかったクララ・シューマンを 支え続け、生涯独身を通したのがブラームスである。
　私はブラームスの音楽が大好きだ。ブラームスの作品には、ブラームス独特の気品 に満ちた憧れと悲哀がある。その憧れと悲哀こそ、ブラームスの音楽の核心だと思う 。
　このとき私は、ブラームスの交響曲第３番の第３楽章と第４番の第１楽章を聴いて いただいた。演奏はカール・ベーム指揮のウイーンフィル。不朽の名演だ。いづれも 晩年の作品で、憧れよりは悲哀の色濃い作品だが、やはり気品ある ロマンティシズ ムをたたえた名曲である。
　最後にブルックナーファンのＩさんに敬意を表して、ブルックナーの第４交響曲「 ロマンティック」の第１楽章を聴いていただいた。アントン・ブルックナー(1824年 〜1896年)は、教会のオルガニストの子として生まれ、生涯敬虔なカトリック教徒で 、10歳で父親に代わって教会のオルガンを演奏したほどのオルガンの名手であったと いう。
　そのブルックナーが作曲上大きな影響を受けたリヒャルト・ワーグナーの音楽につ いても、楽劇「トリスタンとイゾルデ」を引用してご紹介した。ルートウイッヒ二世 というバイエルン王国の王様が、このワーグナーの音楽に心酔して、国の政治そっち のけで夜な夜な独りでワーグナーの楽劇を演奏させ、お城を建てることに熱中したが ために、バイエルン王国は財政破綻してしまったという話もご紹介した。(ルキノ・ ビスコンティ監督 映画『ルートヴィッヒ』参照)
　ブルックナーは晩年、皇帝の許しを得てウイーンの離宮であるベルベデーレ宮殿の 一隅に暮らして作曲をしていたが、1896年10月、庭園を望むベンチにくつろいでいて 、そのまま逝ったという。72歳であった。
　時間があったので、ちょっとおしゃべりしすぎたかなと反省。音楽を聴き終えて、 またまたアンコールの言葉をいただいて、内心、これはえらいことになったなと思い つつ、キャビンに戻ってコーヒーを飲みながら妻と次回の日程を相談した。

２月１６日　金曜日　晴

　早朝６時、ニュージーランド北島のオークランド港接岸。ニュージーランドはタス マン海を挟んでオーストラリア大陸の東側に位置していて、オークランドは南緯36度 、東経174度の位置にある。人口は156万人でニュージーランド最大の街だ。9時前、 妻と二人、船を降りる。舷門で折りたたみ式の自転車に乗って降りる青年に会う。寄 港地ごとに愛用の自転車を駆って思いのままに観光できるというのは素晴らしい。
　税関のチェックを済ませてオークランド市内へ。接岸した岸壁近くの川に架かる小 さな可動橋（跳開橋）を見つけて、珍しさに魅かれて渡ってみる。墨田川にかかる勝 鬨橋と比べると随分小さい幅１０メートルほどの橋で、一度、はしけらしい小型の船 を通すために真ん中から開いてまた閉じた。
　港付近は、これといった高層の建物もなく、小じんまりしている。岸壁近くの商店 街も、テナントビルらしきものはあったが、まだ開店しておらず、レストラン、ブラ ンドショップ、スーパーなど小規模の店ばかりが狭い区画に軒を並べていて、大都会 のイメージはない。
　ビジターセンターでもらった地図にある公園、美術館に向かって、夏空の下緩やか な坂道を歩く。２０分ほど歩いて公園着。せみしぐれが聞こえる。セミの種類は、ア ブラゼミの鳴き声に似ているような気もしたが、わからない。後でネットで調べたと ころによると、ジージージーという鳴き声からして、コーラス・シケーダという名前 のセミらしい。
　10時、公園敷地内にある美術館の開場を待って入場。ニュージーランド国民は無料 で、外国人は一人20Ｎｚドルとのこと。楽器、織り物、ブーメランほかのマオリ族の シンプルな美術・工芸品や生活用品が多数展示されていて印象に残った。オーストラ リアのアボリジニー同様、マオリは文字をもたない民族で、口伝でさまざまな技術を 伝えてきたという。その素朴な歌声も聴くことができた。
　日本人の美術家の「水玉作品」の部屋があるのにはちょっと驚いた。壁といわず椅 子やテーブルやピアノといった調度のありとあらゆる所に色とりどりの水玉のステッ カーが貼ってある。ピアノの鍵盤の上にも容赦なく貼ってある。妻はその女性美術家 の名前を知っていたが、私は初めて聞く名前だった。
　美術館を出て夏の日差しの中を歩いていると、同じピースボートの仲間、女性3人 に出会う。一人は某出版社の編集委員をしていたという女性。オーシャンドリームの レストランで食事をしながら何度かお話したことがあって、その明るく屈託のない話 しぶりが印象的な人だ。彼女は街歩きの服装とヒールの高い靴を履いてきたため、「 疲れちゃった」と言って別のピースボート乗客の男性3人のグループに合流して上っ てきた坂を下って行った。
　残ったお二人と私たち夫婦としばらく行動をともにした。植物園までの道程がよか った。公園の両側にユーカリか、あるいはニュージーランド固有種のカウリかもしれ ない大木がそびえる道を、せみしぐれを耳に、森林浴をしながら歩く。木影に吹く涼 風が快い。妻の話では、沖縄のガジュマルに似た巨木だという。やはりカウリか。何 の音だろう、木の中からカタカタカタカタという音が聞こえる。水が流れる音にして は乾いた音だ。不思議な音だ。
　中には赤い花を付けている木もある。鳥のさえずり。ちなみに、ニュージーランド の国鳥はキウイで、沖縄に生息するクイナ同様、飛べない鳥だという。ニュージーラ ンドにしか生息しておらず、そのユーモラスな様子から国民に大変愛されている鳥だ が、固体数は減少しているという。頭上からさえずりが聴こえるので、キウイではな くトゥとかベルバードといった野鳥かもしれない。
　１５分ほど歩いて公園の頂きにある植物園に到着。いくつかの大きな温室から成っ ていて、ニュージーランド固有の植物を中心に、多種多様な植物が群生していた。
　植物園を出ると、近くに戦争博物館がある。低層で重厚な造りの白亜の博物館だ。 戦争博物館はオーストラリアの大きな街にもあって、平和な国、オーストラリアやニ ュージーランドには不似合いな気もするが、第二次世界大戦に参戦した両国の戦勝へ の貢献をささやかに展示したブースはわずかで、マオリの生活文化を中心にさまざま な展示がされていた。むしろ民俗博物館といったほうがよい博物館だ。一階ロビーで 休んでいると、ピースボートのオプショナルツアーの一向と出会う。 　丘の頂にある戦争博物館前からオークランドの町が見下ろせた。夏の日が降り注ぐ 街は、喧騒も雑踏もなく、穏やかにそこにあった。
　緩やかな坂を下って町に下りて行く。人通りも車も少ない夏の日盛りの坂道を歩く 。
　途中にある教会で告別式でもあったのだろうか。黒い礼服姿の老若男女が徒歩で、 車で教会に向かっている。教会入口で垣間見た遺影は、若く美しい女性だったと妻が いう。
　時間を確かめると、正午を過ぎていた。同行してきた二人とはいつの間にか別れて いて、私たち夫婦二人だけになっている。
　坂道を下りながら、道路の両側に建ち並ぶレストランのショーウインドーを見てよ さそうな店を探す。客が大勢入っている店を見つけて入ったが、これが大当たりだっ た。私が注文したグリルも、妻が注文したフィッシュ&チップスも実にうまかった。 地ビールのライオン・レッドビールとハイネケンも頼んだ。代金40Nzドル(ドル77円) は安かったように思う。ウエイトレスの金髪に青い目の女の子が、私の「ベリー・デ リシャス!」の言葉に「サンキュー、サンキュー、ありがとう」と最後の一言は日本 語で応えて喜んでくれた。
　レストランを出て隣接するカフェに入り、お定まりのコーヒーとお菓子、カプチー ノとマーフィンを頼む。これまたブラボーだった。
　カフェを出て、行き会った男性に尋ねると、丁寧に目的の繁華街、エリザベス通り への道程を教えてくれた。しばらく歩いてようやくエリザベス通りに入ってスーパー を見つけ、ワインやチョコレート、マンゴー、パンを買う。この辺りから行き交う人 の姿が多くなる。このエリザベス通りとかビクトリア通りというのは、ニュージーラ ンドに限らず、オーストラリアの街々でも必ず見聞きする。地名や山・川の名前もイ ギリスの探険家や王候貴族の名前だったりする。かつての宗主国、イギリスにちなん での命名で、そこに暮らす人々に違和感はないのだろう。そういえば、日本にも明治 ・大正・昭和という名前の付いた公園や通り、会社名はたくさんある。
　エリザベス通りから港に通じるビクトリア通りに入り、店々のウインドを見ながら 歩いていた妻が、ふと一軒の店に入って行った。私が歩道に立って待つことしばらく 、店から出てきた妻は、「店員さん、日本人だったわよ」と、買ってきた財布を手に 言った。
　私たちが歩きはじめて間もなく、後ろから呼び止める女性の声が聞こえた。
「日本人の方ですか。もしほかに何か買い物をするようでしたら、いま休憩時間なの でご案内します」と、澱みのない日本語でやさしく言葉をかけてくれた。妻が買い物 をした店の店員さんだ。
「幸せそうなお姿を目にして、声をかけさせてもらいました」という。
「犬の首輪を買いたいけど、売っている店ありますか?」
　妻が尋ねた。首輪はジローへのお土産だ。一昨年ベルリンを訪ねた際、デパートで 買った首輪がとても酒落ていて気に入っている。ドイツには国中に犬ほかのペットを 保護する施設「ドッグセンター」があって、さすがペットを殺処分するようなことの ない国は違うと感心したのを覚えている。
　若い日本人女性は、テナントビルの２階にあるペットのアクセサリーショップに案 内してくれた。あいにくジローのサイズに合う首輪はなかったが、ジローのためのバ ンダナを一つ買えた。
　店を出てエスカレーターで一階に下りる。
「結婚してこちらで暮らしているのですか?」
　私が尋ねた。
「いいえ、結婚はしていません」
　そう応えた彼女の名前はやすよさんとのこと。27歳のとき、郷里の福岡を離れてオ ークランドに移り住んだという。
「福岡で一人で暮らしている母親が、自分がいなくなったことで欝気味になってしま って心配なんですけど、手紙を書くだけでこの５年間、一度も実家には帰っていませ ん。こちらの空気が自分には合っていて、元気に楽しく暮らせています」
　やすよさんは現在の心情を素直に語ってくれた。
「是非まめに手紙を書いて、お母さんを安心させてあげてください」
　私はそう言った。福岡で暮らしているというお母さんの心情、遠く離れた異郷の街 で一人暮らしているやすよさんの心情が私にはよくわかった。
「どうもありがとうございました」
　私たち夫婦がやすよさんにお礼を述べると、
「お元気で」
　別れの言葉を残して、やすよさんは人混みの中を自分の店のほうに駆けて行った。
　妻は彼女のお母さんと言ってよい年齢だ。やすよさんは、たまたま買い物に来た妻 の姿に、郷里の福岡で独り暮らしているお母さんの姿を重ね見たのかもしれない。
　オークランドで暮らしている日本人は大勢おられると思うが、こうしてたまたま２０ １８年２月１６日の夏の日盛りの下、賑わっているオークランドのビクトリア通りで のやすよさんとの出会いは、私にとってとても印象深い出来事だった。
「どうぞお元気で」
　私は去って行く優しいやすよさんの背後から声をかけて、ビクトリア通りを妻とと もに港に向かった。

２月１８日　日曜日　晴

　船はニューカレドニア・ヌーメアに向けて航行中。船は時速１０ノット(１８キロ) で一定して、台風にでも遭遇しない限り、悪天候でもほとんど止まることなく航行し 続ける。時速１８キロは速めの自転車並みだが、ノンストップで航行すれば、一日４ ３２キロ走ることになる。東京〜京都間の高速道路を車で走ると、ほぼこの距離にな るという。(新幹線の東京〜京都間は４７６キロ)。
　洋上を南西方向に去ったというサイクロンの余波か、昨夜からまた船の揺れが激し く、廊下の手摺に触れながら歩く。昼食前、ジムでトレッドミルに乗って３０００歩 歩いた。船の揺れにつれて、酒に酔ったように体が左右にふれるのが面白い。

　午後5時15分、ブロードウエイで１５日の『クラシック音楽の魅力』に続いて、自 主企画　『モーツアルトピアノ協奏曲の魅力』第3回目を開催。導入に1786年、モー ツアルトが妻コンスタンツェと結婚した26歳の年に作曲された、第12番第1楽章を聴 いていただく。モーツアルトやマリーアントワネットが生まれた１８世紀中期、ヨー ロッパでは美術、建築、音楽の世界ではロココ様式が主流になる。モーツアルトの音 楽は、その軽快で優雅な旋律といった点では確かにロココ的、あるいはギャラントリ ーな面もあるが、その時代の様式をはるかに超えて現在に生きる私たちの心に響いて くるモーツアルトの作品は、柔らかな陰影にとみ、ときに憂愁をはらんでいる。やは り時代を越えて私たちの心に響く音楽美の極致だ。
　船はニューカレドニア・ヌーメアに向けて航行中。船は時速１０ノット(１８キロ) で一定して、台風にでも遭遇しない限り、悪天候でもほとんど止まることなく航行し 続ける。時速１８キロは速めの自転車並みだが、ノンストップで航行すれば、一日４ ３２キロ走ることになる。東京〜京都間の高速道路を車で走ると、ほぼこの距離にな るという。(新幹線の東京〜京都間は４７６キロ)。
　洋上を南西方向に去ったというサイクロンの余波か、昨夜からまた船の揺れが激し く、廊下の手摺に触れながら歩く。昼食前、ジムでトレッドミルに乗って３０００歩 歩いた。船の揺れにつれて、酒に酔ったように体が左右にふれるのが面白い。

　午後5時15分、ブロードウエイで１５日の『クラシック音楽の魅力』に続いて、自 主企画　『モーツアルトピアノ協奏曲の魅力』第3回目を開催。導入に1786年、モー ツアルトが妻コンスタンツェと結婚した26歳の年に作曲された、第12番第1楽章を聴 いていただく。モーツアルトやマリーアントワネットが生まれた１８世紀中期、ヨー ロッパでは美術、建築、音楽の世界ではロココ様式が主流になる。モーツアルトの音 楽は、その軽快で優雅な旋律といった点では確かにロココ的、あるいはギャラントリ ーな面もあるが、その時代の様式をはるかに超えて現在に生きる私たちの心に響いて くるモーツアルトの作品は、柔らかな陰影にとみ、ときに憂愁をはらんでいる。やは り時代を越えて私たちの心に響く音楽美の極致だ。
　２曲目に、モーツアルトがウイーンにあって、予約演奏会を度々開いて最も華々し く活躍していた1784年(28歳)に作曲された、ピアノ協奏曲第14番 変ホ長調 K.449の 第１、２楽章を聴いていただく。軽快な第１楽章、優美な第２楽章は、ミューズの子 といわれるモーツアルトの天才が曲の隅々、一音一音に行き渡っていて、アルフレー ト・ブレンデルの演奏は絶品だ。
　ルイ１６世の妻、１４歳でハプスブルグ家からブルボン家に嫁いできた王妃マリー ・アントワネットのファッション、その生活を飾った服装、ヘアデザイン、ジュエリ ー、家具調度、あるいは肖像画といったものは、まさにロココ的だ。フランス革命前 夜まで、マリー・アントワネットはヨーロッパのファッションリーダーであった。
　２曲目に、モーツアルトがウイーンにあって、予約演奏会を度々開いて最も華々し く活躍していた1784年(28歳)に作曲された、ピアノ協奏曲第14番 変ホ長調 K.449の 第１、２楽章を聴いていただく。軽快な第１楽章、優美な第２楽章は、ミューズの子 といわれるモーツアルトの天才が曲の隅々、一音一音に行き渡っていて、アルフレー ト・ブレンデルの演奏は絶品だ。
　ルイ１６世の妻、１４歳でハプスブルグ家からブルボン家に嫁いできた王妃マリー ・アントワネットのファッション、その生活を飾った服装、ヘアデザイン、ジュエリ ー、家具調度、あるいは肖像画といったものは、まさにロココ的だ。フランス革命前 夜まで、マリー・アントワネットはヨーロッパのファッションリーダーであった。
　３曲目に、モーツアルト最後のピアノ協奏曲である第27番　変ロ長調 K.595を聴い ていただいた。この曲は演奏者の卓越した技巧をみせるでもなく、あくまでシンプル で、澄みきった秋空のような気品をたたえていて美しい。これを初演した1791年3月4 日のコンサートが、ピアノ演奏家としてのモーツァルト最後のステージとなった。同 年12月５日、モーツアルトはレクイエム作曲途上、35歳の若さで亡くなっている。

２月１９日　月曜日　晴

　朝8時過ぎ、フランス領ニューカレドニア、ヌーメア着。ヌーメアはニューカレド ニア本島のほぼ南端にある。南緯22.3度 東経166.5度に位置する南太平洋、熱帯の島 だ。ヌーメアに近づくにつれて船内の温度が上がるのがわかる。空気がモアーっとし てくる。
　９時半、オーシャンドリームを降りてすぐ、近くに停泊中の小型レジャーボート、 マリーD ドルフィン号に乗り込む。空は晴れわたり、あたりに熱帯の朝日が降り注い でいる。アロハシャツにハーフパンツ姿の男たちが、ギターをかき鳴らして陽気に歓 迎の歌を歌ってくれる。テンポの速いハワイアン風の歌だ。歌を聞きながら、船内へ 。船内はテーブルを挟んで両側にソファがあるゆったりしたリムジンタイプ。オーシ ャンドリームの乗客たち５０人ほどが乗り込むとすぐに出港。
　ヌーメアを出て1時間ほどでアメデ島着。アメデ島は半径1キロあるかないかの珊瑚 礁の無人島だ。珊瑚が砕けてできた白く光る砂のビーチ、エメラルドグリーンの海。 色鮮やかな熱帯の花々、丈高いヤシの木が見える。先ほどのグループが桟橋で歌う歓 迎の歌を聞きながら島に上陸し、ビーチのそこここに置かれたヤシの木影のビーチチ ェアに陣どる。
　着替えや水を入れたリュックをチェアに置き、散索をはじめる。
　1865年に完成したというニューカレドニアのシンボル、アメデ灯台がすぐ近くに見 える。アメデ灯台はフランス本国で組み立てられ、一度解体して遠路はるばる船でア メデ島まで運んで設置されたという。高さ120メートルとのことで、螺旋状の階段を2 00段も上って展望台にたどり着く。眺望は３６０度熱帯の明るい海また海。かつて訪 れた沖縄武富島のムルフルの丘からの眺望を思い出す。
　海鳥が日射しを避け、日影になっている展望台の狭い通路に羽を休めて動かない。 暑さを避けるためだろうか、その鳥はしばらく私の足もとにうづくまっていた。 　１２時前、灯台を下りて昼食。レストハウスに入り、ビュッフェ形式で大皿の料理 をいただく。ワインは飲み放題とのこと。
　タヒチアンダンスが始まる。この音楽が凄まじかった。男と女の歌声は大きく響き 、ドラムの音は開放型のレストハウスを揺がした。その音楽に合わせて露出度の高い 服装の３人の女性ダンサーがリズムに乗ってしなやかに、激しく、セクシーに踊る。 　料理は海老、イカ、ローストビーフ、鳥と魚のフライ、野菜、海草その他大量だっ たが、このタヒチアンダンスの大音響に負けて自分が何を食べているかよくわからな かった。
　食後、海で泳ぐ。これまで寄港してきたセブ島、バリ島、オーストラリア各地にも リゾートはあって、オーシャンドリームにはプールもあり、いつでも泳げたのだが、 旅発つ前から、泳ぐのはアメデ島のみと決めていた。沖縄本島で友人たちと泳いで以 来、4年ぶりの海水浴だ。妻は盛んに水の冷たさを訴えていたが、さほど冷たくはな く、全身海水にひたせばちょうどよい水温だった。
　久々に身をひたした海水は、これが沖縄の海とつながっている海であることを意識 させてくれた。やはり私にとって回帰する海の原点は沖縄の海だ。海水浴客の中には 、フランス語で語り合う人々の姿もある。ニューカレドニアはフランス領なのだ。 　水泳を終えて3時過ぎ、グラスボートに乗る。この島は、カメが産卵に訪れる島と のことで、何種類かの海ガメがプカリプカリと泳いでいる。沖縄でも見る、ゼブラフ ィッシュ、青ブダイもいる。大柄で声の立派な女性が英語でガイドをしてくれた。彼 女が「わたし、東京の赤坂に５年間暮らしてた。赤坂、物、値段高いね」とたどたど しい日本語で語ったときは、皆笑った。
　グラスボートを降り、支度をして帰りの船に乗る。また往路と同じというか、ダン スのときにバンドで演奏していた男たちがギターをかき鳴らし、歌を歌ってくれる中 を乗船。何と、レストハウスやグラスボートでサービスしてくれた皆さんがそのまま 船のクルーで、グラスボートのガイド女性も乗船している。アメデ島に宿泊施設はな いということだろう。
　海に沈もうとしている夕日が美しい。
　一時間後、ヌーメア着。買い物をしようと町に歩み入るが、6時前なのにすでに店 はみんなしまっている。人々と鳥たちが町に出て憩っている。天国にいちばん近い島 と評した女性がいたが、のどかないい町だ。町の真ん中の広場も、我が家近くの小公 園よりほんのちょっと広いだけのシンプルな広場。
　店がみな閉まっているので、買い物を諦める。これで生活できるなら、とても素敵 ではないか。日本の、コンビニやレストランが深夜まで照明を煌々とつけて終夜営業 していたり、国中にさまざまな自動販売機をまき散らしている日本は、何とエネルギ ー、資源を無駄づかいして、自分たちの命をもすり減らしていることか。
　オーシャンドリームに戻って夕食後、９時、10階デッキで観星会に参加。デッキに は大勢の人が出ていた。マット・ダグラスが南太平洋の星座について解説。まず何よ り、南十字星。南太平洋上の夜空には、無数の星がきらめいている。天の川、南十字 星がはっきり見えると妻の声。

２月２０日　火曜日　晴

　暑さで目が覚めた。次の寄港地ガダルカナル島に向けて、船はどんどん赤道に近づ いている。船室の冷風の吹き出し口をいっぱいに開く。
　朝食後、妻は8階で開催される卓球大会に出場のため船室を出て行った。私は2月22 日に訪れるガダルカナル島での戦いに関するNHKドキュメンタリーのビデオを見るた めにブロードウエイへ。20年前に放送されたドキュメンタリーとのことだ。アメリカ が死を恐れぬスーパーマンと評した日本軍の正体はいかなるものであったか。家族を 思いつつも、天皇のため、国のために命を捨てることを迫られ、砲弾、機関銃弾が雨 あられと襲い来る中を無謀にも銃剣で突撃し、次々に倒れて屍の山をなし、さらに食 糧も武器弾薬も補給が受けられぬまま、飢餓に苦しみ、食物を探して地理もわからぬ 島をさまよい、倒れて命尽きていった男たちの悲劇。これほど悲惨で残穀な戦争が現 実にあったのだ。
　石油をはじめとする鉱物資源をもたない日本軍は、豊かな資源をもつ東南アジアか ら南太平洋、オセアニアにかけての国々を標的に、1941年12月8日の連合艦隊機動部 隊による真珠湾攻撃と前後して、現在のベトナム、マレーシア、シンガポール、フィ リピン、インドネシアそしてミクロネシア、ソロモン諸島、ニューギニア、フィジー にまで戦線を伸ばしていった。この作戦には、連合国の一翼を担っていたオーストラ リアとアメリカの連継を分断しようという意図もあった。
　ガダルカナル島は日本から 6000キロ近く離れた南半球の島だ。1942年6月、世界最 強と自称していた日本海軍は、ミッドウエー海戦で大敗を喫したが、翌7月から43年1 月31日までのガダルカナル島をめぐる攻防で日本軍のみで2万人の死者を出した。う ち1万6000人は餓死、病死だという。平の兵士たちは行先も告げられずに貨物船や駆 逐艦に押し込まれ、船酔いと熱さに耐えて見たこともない熱帯の島に上陸させられ、 逃れることも拒むこともできぬまま、食糧はカツカツ、武器弾薬も戦線にはほんのわ ずかしか届かぬまま戦わされて「ソーセージのよう(米軍兵士の記録)」な遺体、むく ろを熱帯の海辺に、野に、山にさらすに至った。無残という言葉は、こういう状況を 表現するための言葉だ。
《戦闘の経過》
▽1942年7月6日　日本の海軍設営部隊、2800余名ガダルカナル島上陸。飛行場設営の ため滑走路建設開始。
▽8月5日　第一期工事を完了したが、8月7日早朝、米軍海兵隊が上陸を開始し、飛行 場はまたたく間に米軍の手に落ち、ヘンダーソン飛行場と命名された。
▽8月7日　ガダルカナル島近海でガダルカナル島へのロジステックスを確保するため の制海、制空権をかけて第一次ソロモン海戦。軍艦への攻撃は成功したが、物資輸送 船団を攻撃しなかったため、米軍は兵力と物資を温存し、これがガダルカナル島の戦 いの勝敗に最後まで影響したともいわれる。海戦は第三次まで行われたが、日本軍が 被った損害は軍艦・航空機、輸送船と兵員・食糧、武器弾薬などの物資とも甚大であ った。
▽8月18日、陸軍の一木清直大佐率いる大本営直轄の一木支隊(北海道の旭川第7師団 の歩兵第28連隊を基幹とする916名)はタイボ岬に上陸し、ヘンダーソン飛行場の奪還 を目指したが、対峙する米軍勢力が戦車、大砲・機関銃で重武装した1万900の大軍で あることを全く把握していなかったために、無謀な銃剣突撃を繰り返して壊滅した。 一木大佐も戦死。
▽9月7日川口清健少将率いる川口支隊(第35旅団司令部および歩兵第124連隊基幹)、 ガダルカナル島上陸。
▽9月12日から14日にかけてヘンダーソン飛行場奪還に向けて川口支隊による第一次 総攻撃(血染めの丘の戦い)が行われた。手にしている武器弾薬の質と量において、特 に索敵能力、指揮官の戦況の把握、判断力において劣る日本軍はまたも敗退した。 ▽10月24日 〜26日日本軍の第二次総攻撃。これも失敗に終わる。結局敗戦であった が、当初これを「勝利」と嘘の報告を大本営宛打電している。
▽11月10日、第38師団長佐野忠義中将率いる部隊ガダルカナル島上陸。14日に師団主 力の輸送を開始し、第三次ソロモン海戦に突入したが、日本海軍は戦艦2隻と多数の 輸送船、兵員ほか大量の武器弾薬、食糧を喪失した。
▽1942年12月31日　天皇臨席の御前会議で撤退方針決定。1943年2月1日から7日にか けて、撤退作戦が行われた。予定どおり撤退地点まで到着することができる者もあっ たが、身動きできなくなった傷病兵は自決、上官・同僚による殺害が大規模に行われ たという。生き残って撤退する輸送船を目前にして、同胞に殺された兵士たちの無念 さはいかばかりであったことか。
　ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたものは10,652名、そ れ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち 直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死だったという。 一方、アメリカ軍の損害は戦死1,598名、戦傷4,709名であった。

　船室に戻ると、卓球大会に出場した妻は、ダブルスで静御前組に負けてしまったと いう。この静御前というのは私が付けたあだ名だが、京風の言葉を話す、一見ふくよ かでおっとりした印象の女性だが、麻雀(マージャン)の達人で、麻雀大会で並いるジ ャン歴何十年というおじさんたちを退けて優勝。さらにこの日、卓球大会でも優勝な さった。恐れ入りました。

　妻は自ら開講した書道教室のため、すずり、筆、墨、用紙を持ってOさんとともに 会場へ。集まった受講者は６名とのことで、１時間ほどして上機嫌で帰室した。

２月２２日　木曜日　晴

　ガダルカナル島は南緯9度37分 東経160度11分にある熱帯の島だ。面積は5,336 km2 で、日本の愛知県よりほんの少し狭い。現在のソロモン諸島はオーストラリア、ニュ ージーランド等と同様、英連邦に属する独立国で、元首は英国のエリザベス女王。ソ ロモン諸島最大の島であり、ソロモン諸島の首都ホニアラがある。
　港に着く前から船内には熱気が充満していたが、タラップを渡って埠頭に立つと、 露出している顔や腕が日差しを受けてヒリヒリ痛い。コンテナヤードとその他のエリ アの区別がはっきりせず、多数のコンテナがあちこちに置いてあり、フォークリフト とトラックが入り乱れてコンテナの積み下ろし作業をしている。
　人に尋ねながら博物館に向かって歩く。強い日射しに汗がにじむ。100メートルほ ど行きすぎて戻り、博物館を見つけるが、米ドルでは駄目で、10ソロモンドルでない と入場できないという。仕方なく道の反対側のホテルで両替えしてもらって入場する 。かやぶき屋根の展示場には、民芸品のお面や日米戦の写真などが展示してある。隣 の部屋にはソロモン諸島の風景や民俗舞踊の絵などが飾られていた。妻がショップで 娘へのお土産になる貝の髪飾りを買う。
　このとき中庭で民族音楽と踊りが始まった。タブーラほかの打楽器の激しいリズム 、笛に合わせて褐色の肌の若い女たちが裸足で躍動し、歌い踊る。男たちが楽器を打 ち鳴らし、女たちに合わせて歌う。先日接したアメデ島のハワイアン風の音楽と踊り とはまた違う、濃厚な土着の匂いのする歌と踊りだ。そのリズムは激しく、歌声は大 きく、心を揺すぶられた。しばらく見て船に戻る。
　船内で昼食をとった後、ガダルカナル戦跡めぐりツアーに参加。まず40分ほど、炎 熱の中、５台のバスで舗装されていない道をガタガタ走って慰霊碑に向かう。車中に 、現地の青年がガイド役で乗り込んでいた。彼は英語で、「私の勤め先は北野カンパ ニーです」と誇らしげに言った。北野建設はＯＤＡ事業はじめ、ソロモン諸島で手広 く土木・建設事業に携わっているらしい。
　慰霊碑は海を望む丘の上にある。高さ6メートルほどの碑石4本と、篭を背負って海 を見る漁民の像が立っている。避ける場所もない炎熱の下、献花・焼香。袈裟姿の僧 侶が経を読み、のりとを上げる男性がいた。同行の参拝者は100人ほどもいただろう か。
　この島で１９４２年から４３年１月にかけて、日本から６０００キロも離れたこの 熱帯の島で、激戦が闘われ、日米合わせて２万数千人の兵士が亡くなった。 　何のために？　とつくづく思う。その戦いが現在の世界に何をもたらしたかという ことも考える。いまだにそこここに錆だらけの船や飛行機の残骸が残されている。そ れは、朽ちるままに放置されているというより、当地の「戦跡」として、一種悲しい 役割を、戦後７３年を経てなお担わされている。
　またバスに乗って日米両軍が激戦をくり広げた903高地「血染めの丘」へ。1942年9 月、8月に奪還作戦で壊滅した一木支隊に続いて、川口支隊が米軍に奪われたヘンダ ーソン飛行場奪還に向けて夜間突撃を何度も繰り返して撃退され、連合軍の砲弾、機 関銃弾に倒れた。一隅に戦跡のプレートがあり、夜が明けた丘には累々たる屍が横た わり、なだらかな丘は一面血に染まっていたという。
　さらにホニアラ国際空港(旧ヘンダーソン飛行場)に向かう。ソロモン諸島を代表す る空港だが、1日2便ほどが発着するだけの小さな空港で、空港ターミナルの建物内は 冷房もきいてはいなかった。屋外に平和のかねがあり、隣に日本軍が放棄したという 75ミリ留弾砲が置かれている。何とも奇妙な取り合わせだ。島全土に70数年前に持ち 込まれた８門の溜弾砲があるとのことで、これまた悲しい「戦跡」の役割を担わされ た大砲だ。帰途、バスはスピードを上げ、舗装されていない道をガタガタ車体を揺ら して走った。
　港に戻って美術館に入る。広々とした美術館で、彫刻、絵画、壷や土器、人形、そ の他多数の展示品がある。館内は涼しく、大勢の人が訪れていた。現在のガダルカナ ルの平和の息吹が感じられてよかった。
　6時前帰船。船の前に露店のテントが立ち並び、買い物をするオーシャンドリーム の乗客たちで賑わっていた。妻が木製のサラダ用ホークとスプーンを8ソロモンドル で買う。大きくてしっかりしたなかなか良い品物だった。

２月２３日　金曜日　晴

　午後、「これでよいのか日本の労働政策」というタイトルで自主企画を開いた。こ れは昨年３月まで神奈川県の労働相談員をしていた私の専門領域に係る企画で、「昨 今、長時間労働による過労死の多発、正規・非正規社員間の格差拡大や、パワハラ、 セクハラといった労働、職場の人間関係をめぐる問題が大きく取り挙げられています 。これらの問題についてお話をして、皆さんのご意見も伺い、解決策を探っていけれ ばと思っています。また、裁量労働制の適用範囲拡大、高度プロフェッショナル労働 者の労働時間の縛りをなくそうという労働基準法改正案が国会に上程され、審議が始 まっていますが、この改正は長時間労働の恒常化につながるのではという懸念が多方 面から指摘されています。この問題についても皆さんとご一緒に考えていければと思 います」と冒頭のご挨拶。40分間、配布したレジュメをもとにお話して、集まった方 々のご意見を伺う。
　私の問題提起を聞いて、「あなたの話はすべて経営者が悪だというふうに聞こえる が」とか、私の「派遣法は悪法です」という発言を取り挙げて、「代議士が国会で審 議して決めた法律なのだから、それには従うべきだろう」と言って反発する男性もお られた。
「おっしゃることはよくわかります。使用者が悪らつな人ばかりでないことは当然で 、たとえば私の友人は、日頃会社のために一生懸命働いてくれる社員に感謝の意を込 めて100人の社員をハワイ旅行に招待しました」と伝えた。これは偽りのない事実で 、私の郷里で菓子チェーンを営んでいる高校で同級だった男は、社員を大事にする菓 子チェーンの社長として地元で尊敬を集めている。彼は３年前、会社の従業員百余名 をハワイに招待し、ホノルル空港でその一人一人の首に「ありがとう」という言葉を 添えてレイを掛けてあげたという。その夢を彼は２０代の頃から何度私に熱く語って 聞かせてくれたことか。彼は私が最も尊敬する友人の一人だ。世に尊敬に値する経営 者はたくさんいる。
　正規非正規労働者間の格差拡大の一つの大きな問題点である派遣法に基づく労働者 派遣制度については、やはり派遣事業者の中間搾取を正当化し納得させるに十分なロ ジックはない。然るべき条件を付して契約を結び、直接雇用して労働者を遇すること のみでよいはずなのだ。「たとえば短期の直接雇用という方法もあるわけですから」 と申し上げた。
　パーペさんも来てくれた。終了後まで発言、質問は続いた。　　おおむね私の発言 を好意をもって受けとめてくれる参加者がほとんどだった。
▽6時半、待望の太平洋の落日が見られるというので10階デッキへ。オーシャンドリ ームはオレンジ色の光に包まれていた。その光が日の沈むにつれて色を濃くし、西の 空にたなびく雲の裾、空も雲も海も紅に染まる洋上の落日を見せている。妻もOさん も感動に声を失っていた。私は、２０年近く前に見た沖縄渡嘉敷島阿波連ビーチの落 日を思い出していた。それは何と絢爛豪華な落日であったことか。

　8時、パーペさんと波平で飲む約束をして出向く。名刺をもらったが、彼はローマ クラブ所属の弁護士さんだという。途中で近くで飲んでいた元大阪社労士会の会長を していたという男性も加わって、1時間半、歓談。EUの先行きが心配ですと私が述べ ると、「ＥＵは崩壊することはないでしょう」と彼は言う。いつかレストランで、パ ーペさんは「私はドイツのメルケル首相があまり好きではない」と言ったことがある 。その言葉の裏には、ベルギーという小さな国の国民として、EUの中心を担う大国で あるドイツに対する独特の屈折した思いがあったのかもしれない。それにしても、パ ーペさんの日本語スキルには驚くばかりだ。楽しい２時間だった。

２月２４日　土曜日　晴

　午前10時前、いよいよこの旅の最後の寄港地、ラバウル港に接岸。ラバウルは、ソ ロモン諸島と同じ英連邦に属するパプアニューギニアに属する島で、緯度　南緯4° 11' 経度　152°10'。船を降りたとき、気温はガダルカナルより低いように思われた 。私たちはオプショナルツアーには参加せず、港で客待ちをしているたくさんの車の 中の11人乗りのマイクロバスで8人で観光に出発。一人13ドルの約束で話を決めた。 　走り始めて間もなく、車は海辺に停まった。ホテルがある。その前の砂浜に立って 手で海水に触れると、お湯だった。温泉だ。すぐ前にそびえる火山の裾の海の水温が 高く、海水が温泉のように温かい。私たち夫婦がビーチに立っている所に、現地のま だ十歳にもなっていないと思われる少女が、「もしもしカメよカメさんよ」と日本語 で歌いながら近づいてきて、私たちに日本の童謡を聞かせてくれた。あるいはチップ を期待してのことだったかもしれない。
　別のグループで来ていたオーシャンドリームの若い女性スタッフが、やおらＴシャ ツを脱いでビキニ姿になり、均整のとれたスリムな体で泳ぎはじめたのには驚いた。 　この後、山本五十六の現地記念館だという山本バンカー(防空壕)という施設に立ち 寄ったときには、一人の少年が建物の前にポツンと立って恵みを乞うていた。1ドル をと、バスのガイド役の現地人女性が言う。妻が１ドルを彼の首から下げた箱に入れ た。その近くで、私たちを前に「さらばラバウルよ　また来る日まで　しばし別れの 涙がにじむ〜」と、とつとつとした日本語でラバウル小歌を歌う子供たちの一団があ った。妻が1ドルを寄付。
　いつか、そういう場面に遭遇してもお金は上げないでという話を聞いたことがある 。しかし、おそらく晴れ着であろうそれなりに整った服装で、私たちの来訪を待ち、 こうして歌まで歌ってくれている人々に、子供たちに、冷たく背を向けることは私た ちにはできなかった。自立心や労働意欲を奪う、子どもの人権に係る問題といった言 葉が浮かぶが、彼らに健康で文化的な生活を保障すべき政府がそれを怠っているとす れば、あるいは政府が施策をしようにもそのための予算がないとすれば、働きたくて も働く場がないとすれば、そのような行動をとる彼ら彼女たちの親と、外国人観光客 の私たちの行動を、誰に責められようか。
　バスに戻って出発するとき、助手席にいたガイド役の女性が私の隣の席に座った。 「人が８人しかいない。一人１５ドルください」と英語で言う。１３ドルで約束した のになぁとは思うが、確かに客の数が１０人に２人足りない。途中で切り出されても なあと思いつつ、ここでトラブッっては元も子もない。いつの間にか私が交渉役を引 き受けていた。
「皆さん、さっき１３ドルという話でしたが、人数が少ないので１５ドルにしてほし いと言っています。どうしましょうか？」と私は後ろを振り返って日本語で尋ねた。 「いいよ、いいよ」と皆さん寛容に応じてくれた。車に乗って運ばれている身として は、了解するのがいちばん賢明だと思うのは私だけではなかった。
　私は、隣に座った女性の大きなかっ色の手を握って「フィフティンダラーズ、ＯＫ 、プロミス、プロミス」と、左手で握った手を右手で軽くトントン叩いてみせた。彼 女は安心したようで、白い歯をのぞかせた。生活がかかっている。ドライバーは夫で 、子供もいるだろう。我が身の贅沢な旅に照らして、ここで一人15ドルの支払いを拒 むことはないだろうと思ったのは私だけではなかった。
この後、車は1時間ほど走って米・オーストリア軍のメモリアルパークに私たちをい ざなった。どうも当初とは話が違ったが、とにかく車を降りると、私にとって意外な ものとの出会いがあった。
　広い芝生の墓薗の中央に、その木はあった。私と並んで歩いているガイド役の女性 に英語で、「この木は何という木？」と尋ねると、「レインツリー」と、思わぬ答え が返ってきた。
　レインツリーだ。大きな木が地上に半経5メートルほどの影を落として、広い影を もたらしてくれている。そうだ、大江健三郎さんが短編小説に書いたレインツリーだ !そういう名前の木があることを、もう随分昔、私は大江さんの小説ではじめて知っ た。
　葉と幹にたっぷり水をたたえて周囲の生きるものたちに水の恵みを与えてくれると いうレインツリーだ。幹に触れようとしたが、周囲に花が植えられてあって、それは 叶わなかったが、思いがけなく嬉しい出会いだった。
　ラバウルはガダルカナルのような激しい上陸戦はなかった島だが、日本海軍が巨大 かつ堅固な基地を築いていたことで、やはり軍司令部や野戦病院の劫はあった。しか し、私たちはそこに入って見学することはしなかった。私は、光まばゆい熱帯の地上 から、「戦跡」の、暗い洞屈に入って行く気分になれなかった。
　バスが日本軍司令部跡に着いたとき、子供たちが何人か駆け寄ってきた。何かしら 期待して炎暑の中を待っていたのかもしれない。しかし私たちは彼らと話をすること もなく司令部跡を発った。
　途中、ココポという小さな町があった。妻の話では、1950年代の日本の田舎の町の ようなたたずまいだという。
　車に戻り、昼食もとらずに港を目指すよう求める。長い湾岸の道を車はひた走り、 2時過ぎ、港のスーパーマーケットの前で停車した。最後に1人15ドル、8人分を清算 して解散した。ガイド役の女性に「バイバイ」と言うと、彼女も「バイバイ」と笑顔 で応じてくれた。
　スーパーで買い物をする。ハム、パン、トマト、コーラほか。
　10分ほど歩いてオーシャンドリームに到着。9階デッキで、同じバスでツアーに出 かけた5人とともに遅い昼食をとった。富山の酒『銀盤』をご馳走になった。スーパ ーで買ったハムは、とてもうまかった。
「終わりましたね」と誰かが言った。
　予定の寄港地観光をすべて終え、横浜港に帰り着く日を指折り数える。長い旅もあ と８日を残すだけだ。

２月２５日　日曜日　晴

　午前9時45分から9階デッキで戦没者追統式が行われた。この朝、熱帯の空は銀青色 に輝き、海は穏やかだった。大勢の人々が集まる。黙祷の後、軍事評論家の前田哲男 さんが慰霊の言葉と追悼の和歌を読み上げる。
　22日ガダルカナル、24日ラバウルと、73年前日本軍が洗領と敗退を遂げた島々を巡り 、改めてこの広大な海域で戦闘を繰り広げた愚かさを思い、その愚かな戦いで死に追 いやられた民間人、兵士たちを追悼する。
　たまたま隣のデッキチェアに腰を下ろしていた男性が、あの戦争の原因についてあ れこれ言及して、「あれは、日本が開戦に踏み切るようはめられた戦争だという話も ありますがね」とおっしゃる。
　そうではあるまい、日本が中国・満州、東南アジアに持っていた権益を手離すよう 迫られて、日本から仕掛けた戦争でしょうと私はやんわり言った。いずれにしても、 あの戦争で拒むこともできぬまま徴兵され、工場へと動員され、非戦闘員であるにも かかわらず連合軍の砲爆撃に遭って無念の死を遂げなければならなかった周辺諸国で ２０００万人、日本人３００万人を超える犠牲者のことは決して忘れてはならない。 彼ら彼女たちには、一人一人に名前があり、親兄妹、家族、友達、恋人もいたはずだ 。死して命を失った人々の無念、生き延びてそれらの人々を失った人たちの痛みを思 い、戦争は二度と繰り返さないことを誓う。

２月２７日　火曜日　晴

　旅も最終盤。今日は午前午後と、これまで活動してきたさまざまな自主企画の成果 発表会がある。妻は書道教室の作品の貼り出しに8階ラウンジへ赴き、さらにリコー ダーグループの演奏に出演予定とのことで大忙しだ。
　港に停泊している日以外、船が洋上にある日々、船内のホール、デッキでは歌声が 聴こえ、リコーダー、ハーモニカ、和太鼓、ソーシャルダンスやラインダンスの音楽 、体操の掛け声があり、手作りバイオリンのグループ、花魁人形を作るグループ、俳 句、カラオケとさまざまなグループが賑やかに、あるいは静かに活動していた。
　今日はその成果発表の日だ。
　妻が加わっているリコーダーグループの合奏は、童謡を中心に、全員女性で７人ほ どのグループ。童謡「海」の素朴なリコーダーのメろディーが満員のブロードウエイ に流れ、計４曲を披露して終了。
　いくつかのグループ発表の後、ブルックナーファンのＩさんがハモニカグループで ハーモニカの合奏を披露。パイプオルガンを使って作曲されたブルックナーの壮大な 交響曲をこよなく愛するＩさんが、ハーモニカで童謡「ふるさと」を演奏。何とも楽 しいアンビバランスだ。
　夕方４時まで、各グループが順番で練習の成果を発表した。コーラス、歌とギター 、ドラム独奏、和太鼓、ソーシャルダンス、ラインダンス、ジャズバンド、手品、カ ラオケ、落語、ハーモニカ、リコーダー、ＥＴＣ。
　今夜の酒場「波平」や「バイーヤ」は、発表会の打ち上げで賑わいそうだ。

２月２８日　水曜日　晴

　いよいよ２月も今日で終わる。朝9時半、『モーツアルト、ピアノ協奏曲の魅力』 最終回を、昨日発表会で賑わったブロードウエイで開催。
　最初にピアノ協奏曲第18番 変ロ長調 K.456の第１楽章を聴いていただく。この１ ８番は、オーストリア出身の盲目のピアニストマリア・テレジア・フォン・パラディ スのために1784年の9月30日にウィーンで作曲されたという。曲は、子供が大人に何 か問いかけているような軽快なメロディーで始まる。この、子供が何かを問いかけて いるようなメロディーは、オペラ、シンフォニー、室内楽などの、モーツアルトの音 楽のそこここから聴こえてくる。35歳の若さで亡くなったモーツアルトの、子どもそ のままの心の素直な表現だ。
子どもが、「ねぇねぇ、お母さん、空はどうして青いの？」と母親に問いかけるフレ ーズを音楽にすれば、こうなるといった感じ。モーツアルトの音楽の魅力の本質は、 誰の心にも生まれる喜び、悲しみ、不安、楽しさ、うれしさをそのまま音楽にしてい るところにあるのではないかと思う。その素直に表現された音楽が、多くの人々の心 に響く。だから、モーツアルトの音楽は、子供でも口ずさめる。老若男女いずれの心 にも容易に写るのだ。
　たとえばクラシック音楽の最高峰と評する向きもあるワーグナーの音楽は、長大で 幾重にも折り重なった和音の連続、無限旋律といわれる果てしない楽奏、蒼大な神と 人間の闘いの物語(４部作　ニーベルングの指輪)といったもので、その巨大さと複雑 さゆえに、わからない、馴染みにくいという人が多い。
　ポリーニのピアノ、ベーム指揮ウイーンフィルの演奏で、ピアノ協奏曲第２３番　 イ長調　Ｋ488の第２、第３楽章を最後に、５度にわたって聴いてくださった皆さん にお礼の言葉を述べて、５回にわたる私の企画を終えた。

３月２日　金曜日　晴

　朝、オーシャンドリームは小笠原諸島南部に位置する硫黄島に接近し、島の周囲を 一周するという船内放送があった。多くの乗客がデッキに集まった。
　硫黄島は北緯24度45分、東経141度17分の太平洋上にあって、東京から1200キロ南 方に位置する亜熱帯の火山島だ。沖縄県の石垣島とは東西に1700キロ余離れているが 、ほぼ同じ緯度上にある。
　オーシャンドリームは2月24日に寄港したラバウル(南緯4度、東経151度)から北北 西に向けて三千数百キロを航行してきたことになる。
　「クジラが潮を吹いてる!」「ジャンプした!」と、デッキのあちこちで歓声が上がっ た。海面のあちこちに潮が吹き上げられ、クジラが垂直に跳び上がり、大きな三日月 形の尾びれを見せて海中に姿を消す。硫黄島を含む小笠原諸島は、日本でも有数のホ エールウオッチ海域だ。
　その硫黄島は面積　23.73 km2。最高峯は摺鉢山172m、東西8 km、南北4 kmという 小さな島だ。島は島全体が巨大な火山のカルデラの一部として海上に出ている火山島 で、海底からそびえる山体は冨士山より大きいという。
　火山島らしく、緑が少なく、黄土色の大地がむき出しになっている。現在、基地を 構える自衛隊が管理しており、民間人の立ち入りは規制されているという。舗装され た道路、飛行場の滑走路や桟橋が見え、レーダーサイト等、自衛隊の施設がそこここ に見える。
　ここで意外なことが起こった。横浜を出てから初めて、携帯の着信音が鳴ったのだ 。知人からのメールだった。周囲の人々もメールや電話を利用しはじめて、デッキは 賑やかになった。おそらく硫黄島で生活する自衛隊員の公私の活動のために中継基地 が設けられていて、それに近づいた船上の私たちの携帯やスマホの交信も可能になっ たものと思われる。
　この硫黄島では、1945年2月19日から3月26日まで、日米の激戦が行われた。戦いは 凄惨を極め、日米合わせて24662人の戦死者を出している。日本軍は摺鉢山を中心に 数百門の砲を十キロ以上の地下壕でつないで島を要塞化し、これに対して米軍は夥し い数の爆撃機と戦艦から爆弾・砲弾を雨あられと撃ち込んで上陸戦を敢行した。海も 山も業火に覆われ、日米双方の兵士の死傷者合わせて数万人の血で染まった。
　周囲２３キロの小さな島、不毛な火山島の争奪戦で若くして死ななければならなか った両軍兵士の無念さを思い、私はデッキの手すりに身を寄せてしばらく合掌した。
　映画『硫黄島からの手紙』で、渡辺健が演じていた名奨栗林中将の手紙の、家族を 思いつつ淡々と綴られた文面を思い出す。戦争は、「いい人」も、「悪い人」も、み んなその巨大な渦の中に呑み込み、誰もその渦から逃れることはできなかった。内外 に危ういナショナリズムの台頭が顕著な今、そのような戦争の渦が巻き起こるのを未 然に防ぐことこそ、私たちが取り組むべき喫緊の課題だと思う。

３月４日　日曜日　晴

　早朝６時、横浜港大桟橋着。空模様は穏やかで、雨も降っていない様子。
　最後の朝食をとりにレストランへ。１月９日の朝から、レストランに行くと毎朝聴 くことのできたピアノの演奏も今日で聴きおさめになる。２人のピアニストが交替で 華麗なタッチでポピュラーのスタンダードナンバーを聴かせてくれた。my way、シャ レード、AS TIME GOSE BY、Yesterday、酒とバラの日々、all of you　etc。レスト ランは乗客の観光その他の情報交換の場で、サークルの仲間づくりの場でもあった。 食事をしている人同士が、気がねなく親しく話を交わせたのも何よりだった。
　おいしくて毎朝食べていた中華がゆも、これで食べおさめになる。私のために妻と ともに食膳を運んでくれたウエイターさんと別れの挨拶をして、並んで写真におさま る。
　私たちのキャビンのルームサービスをしてくれたインドネシア人の若い女性に用意 していたチップを手渡すことができた。彼女はにこやかに「ありがとう」と日本語で 返してくれた。
　部屋では最後のパッキング。私と妻、それぞれのスーツケースに旅の荷物をいっぱ い詰めて、用意完了。妻がパッケージした段ボール一個２３キロを集荷にきたクルー に託す。
　１０時、ブロードウエイで預けていたパスポートを受け取り、会う人ごとに別れの挨 拶をし、「またお会いしましょう」と再会を約して別れる。
　タラップを下り大桟橋に降り立つ。キャスターの付いたスーツケースを引いて車寄 せのベンチへ。降り注ぐ暖かい春の日差しを浴びて車を待つこと３０分、11時前、長 男が運転する車が到着した。長男の元気な様子にホッとする。彼の話では、今年の冬 は大雪も降って例年になく寒く、今日は特別に暖かい日だという。確かにコートを脱 ぎたくなる春の陽気だ。家に着くと、妻が「梅の花が咲いてる！」と感動していた。
　ジローが大喜びしてシッポを振り、跳びついてきた。
「悪かった、悪かった」と私はジローを抱いて長い不在を詫びた。かつてないほどフ サフサの体毛が、彼が耐え忍んだこの冬の寒さを物語っていた。
−了−

　本当に思い出多い旅でした。地理を学び、歴史を学び、音楽を聴き、寄港地の風物 に接し、船内外の多くの人々と触れ合うことができて、かけ代えのないたくさんの思 い出ができました。
　台湾の基隆、台北、フィリピンのセブ、インドネシアのバリ、オーストラリアのフ リーマントル、パース、アデレード、メルボルン、シドニー、タスマニア、ニュージ ーランドのクライストチャーチ、ミルフォードサウンド、オークランド、フランス領 ニューカレドニア、アメデ島、ソロモン諸島のガダルカナル、パプアニューギニアの ラバウル、そして周囲を一周した硫黄島と、いずれの寄港地でもたくさんの思い出を 心に刻むことができた５５日間でした。「洋上の楽園」と評する人もいましたが、当 たっていないこともないように思います。
　９か月、３６回にわたるオセアニアクルーズ日記をお読みくださった皆様に感謝申 し上げます。