銀河

 電車のドアが開くと、洋は満員の乗客に押されて電車を降りる。 周りは、ほとんどが近くの大学に通う学生だ。

 洋は、普通なら白杖で電車の床をなぞり、ホームを確かめてから降りる。しか し、朝はそんな余裕もなく、周囲の若者たちに押し出される。

 改札口を出ると、学生たちは賑やかに話を交わしながら、それぞれの大学に向 かう。その学生たちの流れに乗って、洋は職場へ向かう。

 改札口を通って駅舎を出るときだった。バシッという音がして、右手に軽く握 っていた白杖がはじき飛ばされた。改札口に急いでいるらしい誰かが、洋とすれ 違うとき、白杖を足に掛けたらしい。周囲を行く学生の群れは、そんなことには 全く気づかない様子で、賑やかに流れていく。さらに誰かが足に掛けたらしく、 白杖がカラカラと転がる音が聞こえる。
 洋はその場に立ち尽くした。そして、いよいよ路上に這いつくばって白杖を探 そうとしたとき、
「これ。大丈夫ですか?」
 と、洋の手に白杖を渡してくれる人がいた。周囲の賑やかな話し声に負けない、 澄んでよく通る、若い女性の声だった。
「どうもありがとうございます」
 礼を言って、洋は受け取った杖を手に歩き出した。

 大学に向かう学生たちとは橋の袂で別れて、洋は一人、曲がりくねった急な坂 道を上る。初夏の朝の日差しはもう高く、洋の肌は汗ばんでくる。坂の中腹にあ るロッジの前を通り、林間の緩やかな階段を上って、丘の頂に出る。そこで突然 林が途切れて、視界が開ける。そこは造成された宅地で、戸建ての住宅が立ち並 んでいる。

 洋の背後から、
「すみません」
 と、呼びとめる女性の声が聞こえた。立ち止まった洋に、
「老人ホームの楽々園はどっちへ行ったらいいでしょうか?」
 と、澄んだ声が尋ねる。

 それは、駅で白杖を拾ってくれた若い女性の声だった。
「さっきはありがとうございました。楽々園は僕の勤め先なので、一緒に行きま しょうか」
 と洋は応えた。

 洋の視力では、人の細かな目鼻立ちは見えない。それでも、日中の戸外なら、 建物や車、人の様子は何とか見える。女性の服装は、どうやらTシャツにジーン ズ、髪はショートカットらしい。並んで歩き出した女性の背丈は、洋とほぼ同じ だった。
「目がご不自由なのに、歩くのがとても速いですね。なかなか追いつけなくて」
「ほんの少し見えるんです。それに、もう通い慣れていますからね」
「私、今日から実習でお世話になる、リハビリテーション学院の芝ユリです。よ ろしくお願いします」
「僕は指導員の洋です」
「え、指導員さんですか。学院の先生から、指導員さんを訪ねていきなさいって 言われています」
 女性の声は、嬉しそうに、ちょっと幼くなる。

 確かに洋の手元には、リハビリテーション学院からの依頼の文書が届いていた。 毎年やってくる実習生たちは、施設内の医療をはじめとして、介護、給食、洋が 担当している生活指導と、各セクションの仕事について、一週間から二週間、実 習することになる。

 角をいくつか曲がって、雑木林に囲まれた進入路を行くと、楽々園に着く。二 人が玄関を入ると、
「おはよう」
 と、朝食を終えてロビーでくつろいでいる入居者が声をかけてくれる。二人は それぞれ挨拶を返して、指導員室に入った。指導員室に入ると、洋は、朝のミー ティングで職員に紹介するのに必要な事柄を芝ユリに尋ねた。
「理学療法と作業療法、どっちの科ですか」
「OT科、作業療法科です」
「何年生ですか?」
「三年生です」
 その答えは、一言一言歯切れがいい。

 洋は、ミーティングで芝ユリを職員に紹介した後、一緒に二十ある入居者の居 室を回った。一人一人のお年寄りに朝の機嫌を伺うとともに、実習生を紹介した。
 いくつかの居室を回って、二人が喫茶室に入ったときだった。
「おい、自転車貸してくれよ」
 と、テレビを見ていたらしい一人の入居者が、洋に声をかけた。
 低い無愛想な声。松武兼吉さんの声だった。松武さんは今年七十五歳になる、 楽々園では最も元気な入居者の一人だ。
「自転車?」
 洋は問い返した。松武さんの言葉が何を意図しているのか、よくわからない。

 松武兼吉さんは、散歩程度なら、単独で外出することのできる数少ない入居者 の一人だった。しかし、福祉事務所から来ている調書に、「加齢による上下肢機 能低下のため日常生活に介護を要する」という一文が書き添えられてある兼吉さ んに、はたして自転車を乗りこなすことができるかどうか、甚だ疑問だ。
「自転車に乗って、どこへ行くんですか?」
「スーパーだよ」
 兼吉さんはボソリと答える。

 最寄りのスーパーマーケットは、元気な人の足で歩いて十分ほどの所にある。 その道程が兼吉さんにとっては難儀なのだろう。
「そうですか。それじゃ介護員さんや看護婦さんと相談してみますから、ちょっ と待ってください」
 そう言って洋は、実習生を伴って介護員室と看護婦室を回った。

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