銀河

12

 その夜、電話もせずに突然洋のアパートにやって来たユリは、かなり酔っている様子だった。
「ねェ、洋、私、寮のテーブルの上で花火しちゃった。コンパで飲んでね、窓から跳び降りて、それからまた窓から部屋に入って、テーブルの上で花火しちゃった。それで洋の所に逃げてきたの。でも私、元気でしょう」
 もつれた口調で言って、ユリは洋に体をもたせかけてきた。ユリの息は、強い酒の臭いがした。
「花火?」
 洋には、ユリの言葉の意味がよくわからなかった。
「そう、部屋で花火したの。みんな騒いでた」
「火事にならなかった?」
「大丈夫だった」
「危ないよ」
「危ないね。でも私、危ないの大好き。洋も大好き」
 そう言ってユリは洋に抱きついてくる。
「風呂は入らなくていいの?」
 洋は酔いのためにしなしなしているユリを抱き止めて尋ねた。
「入る。ユリはお風呂に入ります」
 ユリは怪しい呂律でそう言って、ほんの短い道程を、戸棚や壁にぶつかりながらバスルームに向かった。

 ユリの酔態に気圧された洋は、布団を敷き、仕事関係の点字の記録を読みながら、 ユリがバスルームから出てくるのを待った。
 ところが、三十分ほどしてもユリは出てこない。物音も何一つ聞こえない。多量の酒を飲んで風呂に入ると、 心不全を起こすことがある。洋は心配になって、バスルームを覗いた。
「ユリちゃん、ユリちゃん」
 呼んでも返事はない。薄暗い浴室では、洋の目にユリの姿は見えない。洋は不安に駆られて、 手を伸ばした。洋の指はユリの髪に触れた。ユリは湯舟の中に深々と沈んでいた。 洋の胸は動悸を打った。このままだと、溺れる。
 お湯の際にあるユリの頚動脈に触れてみると、それは走っているときのような速さで脈打っている。 洋は、ユリの心臓が元気なことにホッとした。ユリは、頭を浴槽の縁にもたせかけて寝入っているらしい。
「ユリちゃん、ユリちゃん、こんな所で寝ちゃ駄目だよ」
 洋の声にようやく目覚めたらしいユリは、
「あら」
 と言ったが、それっきり声は出さなかった。
「ユリちゃん、溺れるところだったよ」
 そう言って、洋は立ち上がったユリの体を支えて、ユリが湯舟から出るのを手伝った。
「洋、眠いよ、ユリは眠いです」
 そんなユリの声を聞きながら、洋はユリを椅子に座らせて、海草のように揺れる体をバスタオルで 拭いてやった。洋の服は、すっかり濡れていた。
 布団の上に倒れ込んだユリに、洋はパジャマを着せた。泥酔しているユリの体は重かった。 洋がその重い体を左右に動かしてパジャマを着せている間に、ユリは寝息を立てて寝入ってしまった。

 翌朝、昼近くになって目覚めたユリは、
「私、どうしてここにいるのかしら」
 と、頓狂なことを言った。
 洋は、昨夜の一部始終をユリに話してやった。洋の話を聞いたユリは、
「本当? 恥ずかしいな。ご免なさい。寮に帰ったら、始末書書かなくちゃ」
 と、素直に詫びた。
 さすがに食欲がないというユリより先に、朝食を終えて、洋はふと耳に痒みを覚えて、
「耳掃除してくれる?」
 とユリに頼んだ。
 ユリは、
「お詫びの印に何でもします。ここに頭を載せて」
 と座っている自分の膝を軽く叩いた。
 その仕草は慣れた感じだった。洋は怪訝に思って、
「誰かにしてあげたことあるの?」
 と尋ねた。
 ユリは含み笑いをした。
「お母さんが、よくお父さんの耳掃除をしてあげていたの。爪も切ってあげていた」
 そう言うユリの言葉は、とても穏やかだった。
 ユリの膝は温かく、洋の頬に心地よく感じられた。ユリの耳掻きは洋の耳をくすぐる。 そろそろと耳の縁をさぐる。洋がまだ子供の頃、母にしてもらった耳掃除の快い記憶が甦った。
「反対」
 とユリが洋を促した。
 その反対側の耳掃除が始まって、耳掻きがある箇所に触れたとき、洋は首や肩の辺りを微風が撫でていくような 快さを覚えた。洋は、手でユリの膝をそっと撫でた。
「拒むユリの声は甘かった いつしか、洋はある昂りを覚えてユリの手を取って顔を上向けた。 ユリの顔は、間近にあって、その手は洋の頭を抱いた。洋もユリの首に腕を回して抱き寄せた。

 一時の後、ユリはたおやかな仕草で洋の髪を弄んでいた。
「私、前に好きな人がいたの。でも、好きだと、この人の言うことなら何でも聞かなきゃっていう気になって」
「たとえば、どんなこと?」
 と洋は尋ねた。
「あのとき、滅茶苦茶なことをするの」
 そう言うユリの声は低く翳った。
「それ、言われるとおりにしたの?」
 洋の問いに、ユリは黙っていた。
 洋は、性的好奇心と支配欲にそそのかされて、腕の中のユリを思うままにしようとしている 若い男の姿を想像した。
「でも、とても厭だった。惨めで、吐き気がして」
 ユリは、低い声ではあったが、きっぱりとした口調で言った。
「それで、言うの、君は僕のものだって。でも、私そのとき思ったの、私は私、誰のものでもない、 私に仕える私だって」
 この言葉は、洋の心に響いた。そうだ、私は私に仕える私なのだ。人間ばかりじゃない、 この世に生きとし生けるものは、すべてその個体の意思に属するものだ。洋はずっとそう思ってきた。 そう思うことが、自分を支える最も大事な考え方の一つだと思ってきた。
「ユリちゃん、心配しなくていいよ、僕はけして君を支配したり所有したりしな
いから。どんなときでも、君は僕から自由だ」
 洋はユリの髪を撫でながらそう言った。

 その日の午後、二人は買い物を兼ねて散歩に出掛けた。
 洋のアパートとユリの学院のちょうど中間の辺りに公園がある。その一隅にテニスコートがあって、 テニスに興じる人々の賑やかな声と、ボールを打つ乾いた音が聞こえる。
 洋とユリは、テニスコートのネットの前のベンチに腰を下ろした。
「私、テニスをしてみたいな」
「したことあるの?」
「ある。高校のとき、部活でやってた」
「じゃあ、けっこう出来るんだ」
「それが駄目なの。全然下手っピーで。インターハイのときは、いつも一回戦で
コロ負けしてたの」
 と言って、ユリはコロコロと笑った。

 洋は、胸の奥にチリチリとした痛みを感じた。その痛みは、いつも洋の心の底に芽を出している。 その痛みの芽が、春の薔薇の枝のようにスルスルと伸びて、洋の心のあちこちに棘を刺すことがある。 そんなとき洋は、その痛みが治まるのを待つしかなかった。 銀河は、洋にテニスをすることを許してはくれないし、ユリを助手席に乗せて、 車を運転することも許してはくれなかった。

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