4 その朝、進入路からホームの前庭に入った所で、洋は若い女性の溌剌とした声を聞いた。 実習生の芝ユリの声だった。 「おはようございます。早いですね」 と言う洋に、芝ユリは、 「ええ、今日は昨日より早い電車に乗れました」 と答えた。 答えた芝ユリの隣に、小柄な人が立っていた。 「おばあちゃんが、朝の散歩に出たいと言うものですから」 と実習生は言った。 「洋さん、おはよう」 それは小森トミさんの声だった。 「トミさん、孫のような若い子と一緒でいいですね」 「本当に、こんな奇麗な孫が欲しいね」 トミさんは上機嫌だった。 それからまた、職場での忙しい一日が始まる。その日は、春と秋恒例の野外昼食会の日だった。 比較的元気な三十人ほどの入居者と職員とボランティアは、バスで近くの川原に出掛けた。 光に満ちた空、川原の石の白さ、川面のきらめきは、洋の目にも眩しく映った。 「この川には魚がいっぱいいるんだ」 小森トミさんと並んで川原に腰を下ろした松武兼吉さんが言った。 この土地で生まれ育って七十五歳になったという兼吉さんは、きっと幼い頃からこの川で魚を捕り、夏には泳いで遊んだのだろう。 「網を持ってくればよかったですね」 と洋は言った。 そのとき、水音を立てて川に入っていく人がいた。 「それっ!」 という声がした。 芝ユリの声だった。その声と同時に、短い水音が聞こえた。 「捕れた!」 芝ユリは大声を上げた。 「洋さん、魚、つかんでみますか」 芝ユリに向かって、洋は子供がするように両掌を並べて差し出した。 「渡しますよ」 芝ユリの言葉と同時に、差し出した洋の掌で魚がピチピチはねた。冷たくツルツルした感触。これはウグイかフナか、と洋が思案する間もなかった。元気にはねていた魚は、洋の掌から水面に落ちてしまった。 「あっ」 洋と芝ユリが同時に声を上げた。 「逃げられちゃった。やっぱり素手じゃ駄目だ」 と芝ユリが言う。 洋は足下の川面を見たが、洋の目に、逃げていく魚の姿が見えるはずはなかった。 「せっかく捕ったのに、ご免ね」 と洋は詫びた。芝ユリにとってとても大事なものを、自分のせいで無くしてしまったような気がした。 「いいですよ、びっくりしたでしょう。ご免なさい」 そう言って、芝ユリは洋のもとを離れていった。 洋も、人々が賑やかに集っている輪の中に入っていった。 その日の帰途、洋はユリを食事に誘った。ユリは帰っても寮の冷めた食事を、一人暮らしの洋は、宿直の介護員とともに楽々園の夕食を食べるか、自分で何か作って食べるかだった。どちらにしても侘びしい夕食だ。 「ユリさん、食事をして帰りませんか。ご馳走しますよ」 「でも、悪いですから」 とユリは遠慮する。 「いいですよ。ユリさんが社会人になったら、今度はユリさんが若い人にご馳走してあげる。そうすればトントンです」 「わかりました、ご馳走になります」 ユリは素直に誘いに応じた。 二人は電車を降りて、駅前のファミリーレストランに入った。 注文した料理が運ばれてくるのを待つ間に、ユリが洋に尋ねた。 「洋さんの目は、どうして見えなくなったんですか?」 普通、そういうことは聞かないのがエチケットだということは、ボランティアのガイドブックにも書いてある。それを、ユリは何のためらいもなく洋に尋ねた。 「ご兄弟は?」 とでも尋ねるように、屈託なく、率直に問いかける。これは、とても洋の気に入った。 「網膜が壊れていく病気なんです」 と洋は答えた。 運ばれてきた料理を食べながら、洋はユリに、自分の目の銀河の話をした。 「銀河? それって、プラネタリウムみたいなものですか」 とユリが尋ねる。 「いや、銀河そのもの、宇宙の銀河が丸ごと一つ」 と洋は答えた。 「フーン、銀河が丸ごと一つですか……」 怪訝そうに言って、ユリは沈黙した。 「ユリさんは、目に何かぶつかって、目から火が出るというのを経験したことありませんか。あの火が、たくさんの細かい粒々になって、いつも目の中にまたたいているような感じ」 洋の視界にはいつも銀河があった。夥しい数の星が渦を巻いているあの銀河だ。 それは、十代の半ば頃に洋の目の中に現れた。最初は一点の小さな光の粒だったのが、年を追って成長していった。 その銀河は、現れて以後、朝目覚めて夜眠りに落ちるまで、けして洋の視界から消えることがなかった。顔を洗っているときも、食事をしているときも、通勤電車の中でも、仕事の最中も、人と話をしているときも、それは消えることがなかった。 無数の光の群れ、それはまさしく銀河だった。そして、その銀河は、自ら光を放っていたから、洋の視界の、星の群れに占められた部分は全く外の光を感じなくなっていた。成長し続ける銀河は、二十代に入って間もなく、洋から活字の本を読む楽しみを奪った。洋の目にその銀河が現れてから、十数年が経っていた。 「何だか楽しいですね。目の中に銀河があるなんて、ロマンチック。いつか解剖の先生が、人間の体は宇宙のように広くて神秘に満ちているって言っていたけれど、そういうこともあるんですね」 リハビリテーション学院の学生であるユリは、おっとりとした口調でそう言った。 「ユリさん、自分の体が、どれくらいの数の細胞でできているか知ってますか?」 と洋は尋ねた。 「60兆個でしょう」 さすがに医学を学んでいる学生らしく、ユリは即座に答えた。 「60兆個の細胞が有機的に結びついて、一人一人の体と命を作っていて、一つの意識がそれを認識している。 その意識が心なんです。心は60兆個の細胞の集大成なんだ。心が、私は生きている、と思う。 これは大変素晴らしいことなんです。人が一生かかっても数えきれないほどの細胞を、 たった一つの心にまとめ上げてしまう仕組み。人間の科学がどんなに進歩したって、 それを人工的に作り出すことなんかできないと僕は思う。だから、僕たちの命って、どんなに尊いものか。 銀河は、そういう素晴らしい僕の命の一部なんです」 洋は、熱を込めて語った。 「そうですね、命って本当に素晴らしい」 ユリは、ちょっと昂った声で早口に応えた。 食事を終えて、二人はレストランを出た。初夏の宵、辺りの空気はかすかに緑の香りを含んで心地良い。 私鉄の線路沿いの道を並んで歩きながら、洋は、 「今度、芝居を観に行きませんか?」 とユリを誘った。 「芝居って、どんな?」 「ハムレットです」 「ハムレット。悩み多い王子様がお姫様に、『尼寺へ行け、尼寺へ』って叫ぶ、あれですか?」 とユリは問い返した。 「そうそう、あれです」 「全く、私の寮は尼寺のような所だわ」 ユリはそう言って、軽く笑った。 二人は小さな踏み切りの前まで来ていた。ちょうど警報機が鳴り出して、遮断機が下り、電車が轟音を上げて通過した。 轟音の後の静けさの中で、 「何だか難しそうですね」 と言うユリの声は翳っていた。 確かにハムレットは悲劇だし、楽しい芝居ではない。それに芝ユリを誘うのは、あまり気のきいた話ではないと洋も思う。 それでも洋は、 「でも知ってるでしょう、ハムレットって演劇の古典だから、ぜひ一度、ナマで観ておいたほうがいいと思います」 と臆せずに誘った。 「そうですね。それじゃ、行きましょうか」 ユリは、いつもの軽快さをとり戻して応えた。 「楽しみにしています。今日もお疲れさまでした」 「ご馳走さまでした。どうぞ気をつけて。失礼します」 リハビリテーション学院の寮に向かうユリと別れて、洋は踏切りを渡って自分のアパートへの道をたどった。 このページの終わりです。 |
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