現在の位置:トップ > 目次 > ウッチャンの落書きストーリー第16回

第11話

この物語の主人公の名は、ウッチャン!中途失明の視覚障害者である。
現在は、世間と言う大学で、生活社会学を学ぶ学生なのだ。

第十一話 ウッチャンは、三流陶芸家(その四)

色づけの色は何色?干し柿、さび釘、マグロの大トロ、さつまあげ、いなりずしのイラスト

ラポールの協力で、陶芸教室が開かれることが決まり、打ち合わせもかねて、陶芸ボランティアの講習会が行われている日に、ラポールを訪ねるウッチャン。
職員と簡単な挨拶をすませ、講習会がおこなわれている工作工房へ。
ちょうど、アイマスクをして、作品を作る。それをどう手助けするかの体験が行われていた。
そして、講師を務めている金子さんを、ウッチャンに紹介する職員。
挨拶を交わす金子さんとウッチャン。
この時、まさか目の前にいる視覚障害者とのつき合いが、長きにわたると、想像することもなかった金子さんだったに違いない。
それは、金子さんのサポート役として、その場にいた紅林(くればやし)さん、講習を受けていた神野(かんの)さんも同様であっただろう。

陶芸教室の進め方、などなど話をするウッチャン。
ところが、ここでもウッチャンの悪い性格がでてしまう。
だれと話をしても、一歩引いたものの言い方をしない。
タメグチを言うわけではないが、思ったことは言葉にしてしまう。
それも、話の中心が陶芸となればなおさら。
とどまることなく、口を動かす。
シッタカブリをしての言いたい放題。
初対面の金子さん、陶芸に関して、それなりの経験と知識を持った視覚障害者だと、その時は思ったらしい。
しかし、陶芸体験教室で、言うほどの事はできてないと感じ、陶芸クラブに協力して、実力のなさを実感する。
となれば、ウッチャンには、言うまでもなく陶芸クラブでのキビシイ指導が、始まることになる。
それもこれも、自分のまいた種なのだ。
だれも攻めることは出来ない。
だが、ウッチャンにとって、望むべき体験であり、楽しい時間なのです。
そりゃそうでしょう!。
とにかく、陶芸を、楽しむことができることにはかわりはないのだ。

クラブとして、活動を始めてみると、以外と、陶芸に興味がある人が多く、常時5〜6人の参加がある。
体験教室とは違い、作るだけ作って、後はお任せとはいかない。
手直しや仕上げの状態まで、自分でやらなければならない。
自分のイメージ通りなのかの確認。
時には、イメージに、近づけるために、手直ししてもらったりする。
完成させるために、足りないのは、視覚による確認ができないだけ。
それを補うのは、感覚ではなく、感性。
だから、人の手をかりたとしても、自分の力で作ったと思える満足感があるし、できあがった時の喜びがひとしおなのだ。

活動日の午後1時頃になると、一人また一人と、工作工房に集まってくる。
作業の準備をしてもらう。なれた者は、準備を手伝いながらの世間話。
和気藹あいの中、作品づくりが始まる。
「ここは、こうするとこうなるから、こうゆうふうに」
「まずは、これをこうしてから、こうすると・・・」
などなど、アドバイスの声が聞こえてくる。
そのうちに、参加者たちの、「スイマセーン、チョット、見てください」
の声や、アドバイスを求める声。
それに、夢中になっているから、出てしまう独り言が聞こえてくる。

ウッチャンは、と言うと、夢中になっているから、静かなもんです。
とは言え、助けを求めないわけでもない。ただ、「スイマセーン」
と、声を上げる前に、「それじゃだめでしょう」、「アッ、何やってんの」
などなど、作業を止めるひと言が、金子さんや神野さんからはいる方が多いのである。
「できるから・・」「知っていると言うから、だまってみてたのに、これじゃぁ」
と、半ばあきれながらぼやく金子さんと神野さん、それに紅林さんたちなのです。
それに対して、「ど忘れしちゃって・・」とか言って、ごまかすのだが、
少しずつばれていくウッチャンの正体。
「一番の経験者が、コレジャー・・・」と、ツッこまれるようになる。
もう、ボケることもできずに、「すいません」と、言うしかない。
すると、「ウッチャンが、すなおに謝るとこ、みれた」と、だれかのひと言。
これには、全員大爆笑。
この程度はまだまし。活動を始めて、1年半ほどたった頃。
電動ろくろがあるのを知ったウッチャン。
よせばいいのに、電動ろくろに挑戦したのです。
一回しか経験がないのに、大口をたたく。
観光客相手に作られた電動ろくろと、すべて一からはじめる電動ろくろとの違いを知らずにいた。
となると、ろくろを前に、金子さんの説明に、(エッ、ナニソレ」と思う言葉が、次から次へとでてくる。
ひたいと背中からあふれ出す、ヒヤアセと言うかアブラアセと言うべきかガチガチ状態となる。
そして、指導が始まる。
金子さんのひと言ひと言に、返してる言葉は、「ハイ」しかない。
そんな中、「聞いた?ハイだって」、「聞いた聞いた。ウッチャンがハイだもんね」、「そうそう、すなおに返事してんの」
「だよね、ウッチャンのハイを、きけるなんてここだけかもね」、
「うん、それだけでも、陶芸しててよかったと、思っちゃった。ハハハ」
と、参加者たちが、笑いをこらえながら会話をしている。
それに、ムッとしたウッチャン、「なんか、楽しそうだねぇ」とひと言。
すると、だれかが、「ウン、楽しい」と返した。
これに、「あのなぁ・・」と言葉をつづけようとした時、金子さんが、
「ウッチャン、人のことはいいから、集中して!」の言葉に、
思わず、「ハイ」と返事をするウッチャン。
これに、「オッ、今のが、一番いい(ハイ)だな」と一声。
これには、指導している金子さん、がまんできずに大笑い。
もちろん、あたりで笑っていないのは、ウッチャンだけ。
おさまらない笑いに、「まったく、いつまでも笑ってんじゃないよ」
と、ウッチャンらしくない、真面目なひと言。
それでも、おさまらない。
ただ静かになるのを待つことしかないウッチャンだったのです。
この時の経験から、多少はおとなしくなったウッチャン。
ちなみにその後、金子さんから、電動やってみる」と言われて、
「アッ、今日はやめときます」と言って、電動ろくろには、
手を出さなくなったのでした。
しかし、ウッチャンは、あきらめてませんよ。
ここんとこは、しっかり書いておかないとね。

さて、月一回の活動で、満足できないウッチャン。
時間を作っては、ラポールへ通うようになる。
紅林(くればやし)さんや神野(かんの)さんが居ると言う安心感もあってか、十日に一回が、一週間に一回、二回と増えていったのです。

クラブのメンバーより、粘土にふれる機会が多くなったんだから、それなりの実力がつくはずなのだが、なぜか身に付かない。
神野さんに、「他の人より、陶芸やってんのに、なんで身に付かないのかねぇ」
と、ツッコまれる始末なのである。
しかし、いつまでもやられっぱなしのウッチャンではない。
「おれの陶芸は、技術が身に付けばいいと言うレベルでは、おさまらない芸術なのだ。ナハハハ」
これに、「おさまらない芸術ねぇ、わかるように教えてくれる?」と神野さん。
「そう、ピカソ的感性が必要だから、説明してもムリだと思う」と、ウッチャン。
そして、話のオチは、「そうそう、感性だけでなくて、頭の中もピカソ的じゃないとだめかな!」とつづけた。
これを聞いた神野(かんの)さん、しばらく笑いが、止まらなくなってしまったのです。
神野(かんの)さんの笑い声を聞きながら、(ヤッター)と、何かに、勝ったような気分になっているウッチャン。
やはり、頭の中もピカソ的な人間を、理解するのは難しいかもしれない。

さて、随分長くなった陶芸の話となりましたが、
ここからが、ウッチャンの落書きならではの話です。

陶芸には、形を作ると言う作業だけではないのです。
作品を、完成させるために、最後の最後にやらなければならない事。

それは、(ゆかけ)とか(うわぐすりを、ぬる)と言われている作業。
つまり、色づけなのです。
やることは簡単、塗料のような液体が、入っているバケツの中につけ込むだけ。
どんな色に、染めたいのか、染めるのか。
それを考え、染めなければ完成しない。
しかし、視覚障害者にとって、ふれることのできない色の世界。
形のない世界を、どう理解するか。
(見えないから、わからない)と言う、思いとの戦いである。

色彩感覚を得ることが、できなかった人もいれば、その感覚を、記憶できた人もいる。
ウッチャンは、後者の方になる人間だが、思い出せるのは、単純な色だけなのである。
世の中の進歩は、生活を大きく変化させるだけではなく、文化を変えるような新しい感性まで生み出している。
言葉も例外ではない。
進歩によって、生まれた新しい色。その色を、表現する新しい言葉。
ウッチャンには、見たことのない色が、世間にたくさんあるのだ。
新しい言葉が、生まれる度に、失われていく言葉。
単純に、日本語で教えてくれればわかる色も、英語だったり、意味不明なカタカナ言葉で表現したりする。
「日本語で・・・」と、尋ねると、「何色って言うのかなぁ」と悩んでしまう。
「アンタ、日本人だろうが」と、ツッコミたいのを、堪えるなんてのは、当たり前になってしまった。

スカイブルーや、マリンブルーはまだわかる。
トルコブルー?いったいどんな青なんだ。
オフホワイト?白は白だろう、他にどんな白があるんだよ。
アイボリー、モスグリーン、ダークグリーン、頭の中はハテナマーク。
ピンクシルバー?どっちか一つにならないもんかなぁ。
ショッキングピンク?びっくりする桃色って、どんな桃色なんですか?
色の名前が、思い浮かばず、「赤に近い茶色」
それじゃぁ、「茶色に近い、赤ってのは、何色?」
「黒と言うか、見た目は、濃い紺色なんです」
「どっちか、ハッキリさせい!」

ウッチャンの残された色彩感覚では、理解不能。チンプンカンプン。
わからないで、止まってしまうのは、クヤシイ気分。
そこで、思いついたのが、自分なりの色の世界を作ること。

眼の前にある色が、何色か、その色の名称を言われてもわからない。
では世間は、その色をどうイメージしているのか。
表現する言葉は、(明るい)(暗い)(ハデ)(じみ)他にもたくさんある。
何色か、認識できなくても、その色を、好きなようにイメージするのは、本人の自由。
白を黒と、認識してしまうのは問題だが、黒をどうイメージするかは、それぞれの感性に、ゆだねられていいはず。
信号の赤を、危険な色と感じ、リンゴやイチゴの赤を、おいしい色と感じ、血の赤を、痛い色と感じる。
これを、へりくつと、思うか、ウッチャンのごたくと捉えるか。
好きなように感じればいい。
そう、(好きなように・・)なのです。
だが、そう思ってしまったのが、ウッチャン。
こうなると、かかわってしまった人たちがたいへん、いい迷惑なのだ。
なにせ、どんな色かわからないのは、自分が視覚障害者だからではなく、その色を、イメージできるように、説明できないからだと、思っているのだ。
どんなに、一生懸命説明してくれても、イメージできない。
そんな時も、自分の感性がとぼしいのではなく、
(なんだよなぁ、もっと感性を豊かにしてモノを見ろよな。
せっかく、みえんだからよぉ)と、相手のせいにする。
なんたる思い、晴眼者だけではなく、障害者からも、怒られるのは、確実。
怒られても、褒められることはない、とんでもない考えを持ってウッチャンにしか理解できない、色の世界を作っているのです。

ある日の朝、午前9時30分頃。
ふだんとは違い、工作工房の入り口には、10数人の人だかりができていた。
この日は、数ヶ月に一回おこなわれる(ゆかけ)の日なのである。
入り口が開けられ、準備が始まる。
テーブルの上は、たくさんの作品が並べられ、ゆかには、所せましと、バケツが置かれていく。
バケツの中には、色づけのための塗料が入っている。
思い思いの色に染める作業が始まる。
そのままつけ込む人もいれば、筆を使って、模様や絵を描く人もいる。
そんな中に、神野(かんの)さんや紅林(くればやし)さん、顔なじみになった人達に、囲まれているウッチャンの姿があった。
ウッチャンの前には、自分の作った物が三つ。
これに、どんな色で、染めるかを決めていたのです。
一番悩むはずのウッチャンは、ニコニコ顔。
その逆に、周りは、何かの答を見つけようと、考え込んでしまっていた。
数分前までは、なごやかに会話をしていた。
ところが、ウッチャンの、「白とか、黒とか、単純なのはわかるけど、いろんなのが、混じった色は、わかんないよ。おれにわかるようにって言うか、イメージできる説明してくんないかな。何かにたとえるとか、なんかあるでしょう」
この言葉に、みんな悩みの世界に、入ってしまったのである。
どんな答えが返ってくるか、楽しみでしょうがないウッチャン。
顔もほころぶってもんです。
まぁ、おもしろい表現がイッパイ。
(干し柿の色)(釘のさびた色)(マグロの大トロ)(おでんのさつまあげ)(いなりずし)、などなど。
ここだけの話、色がイメージできなくても、オモシロイ!オモシロイ!
笑うのが先で、色のことなど忘れてしまうこともあるのです。

自分の感性を、陶芸の世界で表現している、視覚障害者の
プロの陶芸家がいると言う話を聞いたことがあります。

それにくらべて、ウッチャンは、三流陶芸家。
ましてや、アマチュア。
完成した作品の評価など気にしない。
完成させるまでの時間を、楽しむのが先なのである。
ウーン、おもいきり負け惜しみのひと言。

失ってはいない、眠っているだけの感性を、呼び起こすために、心のアンテナオひろげてみると、何やら、心にやさしい電波が届くはず。
その電波の発信元へと尋ねていけば・・・。
ハテハテ?何が待っているんでしょう。
この後は、それぞれの感性にゆだねます。
以上。

第16回終わり