洋の夏休み
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 麓の駅を出たバスは、うねうねとした山道を一時間ほど上って温泉郷に着いた。 洋は右手に白杖を持ち、左手に大きなバッグをさげてバスを降りた。つい一時間 前までいた麓の町では、真夏の熱気が体に絡みつくような不快感があったが、高 原の空気はひんやりとして快かった。

 辺りは夕暮れの青に染まっていた。洋は、もう何度も訪れている道を辿って、 バス停にほど近い小屋の前に立った。小屋の茶色く汚れたガラス戸越しに、裸電 球の光が見えた。建てつけの悪いガラス戸を開けて中に入ると、
「来よったか、洋。ワシは二階や、上がってきい」
と言う猫山の太い声が聞こえた。

 洋はミシミシ軋む階段を上がって、
「今晩は」
と裸電球の光の奥へ声をかけた。

 人の動く気配がして、裸電球の光が黒い大きな影に遮られた。その影がのしか かってくるようで、洋は狭い階段の下り口で一歩後ずさりかけた。
「遅かったな洋。仕事取っておいたで、早う仕度して行きい」
と猫山の太い声が押しつけるように言う。

 洋は猫山の影を避けながら部屋に入った。バッグを部屋の一隅に置き、中から 白衣を取り出して身仕度をする。
「増屋の101号室、203号室、それから松屋ホテルの303号室と307号 室や」

 そこまで聞いて、洋は階段を下りて外へ出た。外はすでに暗かった。増屋は渓 流に架かる橋の畔にある。この温泉郷を訪れるのは、五月の連休以来のことにな る。記憶を思い起こしながら、洋は右手の白杖を前に、ゆっくりと摺り足で歩い た。夜、洋の目には光源しか見えない。山間のひなびた温泉郷のこと、間遠な街 灯の光は細々として、洋の目に辺りのものは何も見えなかった。洋は、その街灯 の光と自分の位置を測りながらゆっくり歩く。ふとした拍子に前後左右がわから なくなってしまう。あちこち見回して、街灯の光を探し当て、渓流の音で左右を 確かめて再び歩き出す。

 渓流沿いの道は絶え間ない流れの音のために、時折通る車の音がかき消されて しまう。ごく間近に迫った車のヘッドライトの光に驚いて、洋は身を引いた。身 を引いた途端に、体がガードレールにぶつかった。ガードレールを乗り越えれば、 遥か下は渓流だ。
「何年か前に、車に乗った若い男と女が落ちて死んでもうたわ」
という猫山の話を洋は聞いたことがある。

 洋は白杖でガードレールをカーンと一つ叩いて再び歩き出した。

 山沿いを歩けば電柱と側溝がある。そのために、歩いているうちにどうしても 道の真ん中に寄ってしまう。道の真ん中を歩けば、車が来る。否応なく洋の緊張 感は高まった。この緊張感が募ると、金縛りにあったように洋の足は一歩も前に 出なくなる。

 洋は自分を励ましながら歩く。ようやく増屋の電光看板の光を目に捉えてホッ とする。

 ロビーに入り、カウンターに向かって、
「こんばんは」
と声をかけたが、誰もいないらしく、応答はなかった。

 洋は構わず、廊下に沿って並ぶ客室に向かった。

 101号室はいちばん奥の部屋だった。洋はドアの上に浮き出している部屋番 号を指で触って確かめ、ドアをノックした。
「はい」
と、ドアの向こうから、女性の声が応える。
「マッサージです」
「どうぞ入ってください」

 応える声から推して、中年の女性かなと洋は思った。今日最初の客が女性であ ることを知って、洋はホッとした。しばらく客に接していない洋の指も、女性の 体なら、何とか揉みこなせるだろうと思う。

 洋がドアを開いて室内に入ると、上がり口の所に迎えに出てくれた女性が、
「どうぞ」
と言って洋の手を取った。その手は柔らかくて、まだ若い女性の手のような感触 だった。
「済みません」 と言って洋が部屋に入ると、
「よろしくお願いします。布団の上に横になっています」
という、別の女性の声があった。

 洋は、迎えに出てくれた女性に導かれて、もう一人の女性の枕元に座った。明 るい室内に入って、洋の目は、何とか横たわっている女性の姿を捉えることがで きた。

 そろそろと手を伸ばして、浴衣の上からその女性の肩に触れ、背中に向かって 軽く撫で下ろす。小さな肩と背中だった。粗い手触りの浴衣越しに触れる体は、 やはり柔らかかった。

 洋は、手指の力を抜いて、肩からゆっくりと揉みはじめた。
「ああ、いい気持ちだわ。お上手ね。お若いけれど、こちらは長いですか?」
と、横たわっている女性が洋に尋ねた。明るく邪気のない声だった。
「ええ」

 洋は曖昧に答えた。

 以前聞いた猫山の、
「一人前の職人いうことにしてあるよって、自分が学生やなんて言うたらあかん で」
という言葉が、洋の言葉を阻んだ。
「お客さん方は、ご姉妹ですか」
と洋は客の背中を揉みながら尋ねた。
「そうじゃないの。私たち、女学校の同級生なの」

 そう答えた女性の声は、まるで歌でも口ずさむように軽やかだった。
「ずっと仲良しでね。卒業してから何十年間、二年に一回ずつ二人で旅行してい
るんですよ」
と、さっき洋を誘導してくれた女性が言った。

 座卓に向かっているらしいその女性の声も、洋が揉んでいる女性の声同様、無 邪気な子供の声のように聞こえた。

 二人の女性は、洋が声で推測する年齢より、ずっと高齢らしかった。
「あら、あなたが出産してから三年間は、お休みにしたわよ」
と、布団に横たわって洋に身を委ねている女性が言った。
「そうだったわね。私の出産のときと、あなたの出産のときと、お休みしたわね。
お母さんになるの、大変だったわ。食べる物のない時代だったし」

 座卓の女性が懐かしそうに言った。

「そうね、私、母乳の出が悪かったの。それなのにミルクが手に入らなくて、と ても困ったこと覚えてる」
と、横たわっている女性が応じる。

 語らう二人の女性の声はあくまで軽やかで、歳月が刻むはずの翳りは感じられ なかった。
「それは素晴らしいことですね」
と洋は賛辞を述べた。

 きっとこの二人の女性は、生まれも育ちも裕福で、やはり裕福な家庭に嫁いで、 何事にも満ち足りて生きてきたのだろうと洋は思う。

 それにしても、いい関係だ。自分にはこういう友達はいるだろうかと、洋は何 人かいる友達を思ったが、老いてなお一緒に旅ができる相手かどうか、全くわか らない。

 女性たちの話を耳にしながら、洋はリズミカルに客の体を揉み続けた。横臥位 で左右の首から足の先までを揉み終え、さらに腹臥位で背中を、それから起きて 座ってもらって再び肩を揉み、最後に肩と背中を軽く撫でて終る。それが習い覚 えて間もない、洋のマッサージのパターンだった。

 そのようにして、一人目の女性を揉み終えると、
「ああ、本当にいい気持ちだったわ。これで一晩寝たら、きっと十歳くらい若返 っているんじゃないかしら。どうもありがとうございました。いいお仕事ね。人 に喜ばれて、感謝されて」
と、洋にとって、この夏休み最初の客は、明るく満ち足りた声で言った。

 この夏休みは幸先がいいと洋は思う。これからの長い夏休みの間、ここでアル バイトを続ける洋にとって、そして、これから長い歳月、この仕事で生きていこ うとしている洋にとって、これは何よりの誉め言葉だった。

 丸々と太ってはいるけれども、柔かい体のもう一人の女性を揉み終えて、代金 をもらい、お茶を一杯ご馳走になって洋は101号室を出た。
「いいお仕事ね」
という、今し方の女性の言葉に励まされて、旅館の暗い廊下を次の部屋に向かう 洋の心は明るかった。

 増屋と松屋ホテルを回り、最初に猫山に指示された5人の客と、さらに追加の あった二人の客を揉み終えて、ようやく洋は帰途についた。山間の温泉郷は、深 い夜の底に沈んでいた。渓流の音が、夕方よりずっと大きく聞こえる。白衣のポ ケットに手を入れて、目の不自由な者のための時計の針に触れると、十二時を回 っている。

 疲れて体はずっしりと重く、左右の拇指は熱を持って腫れ上がっていた。洋は、 間遠な街灯の細々とした光と渓流の音を頼りに、自分の位置を確かめながら、亀 のような歩みで小屋に向かった。
「よう、良かったな客がいて。心配しよったで、夏休みの初っぱなから客の一人 もいなんだら、洋はさぞかしガッカリするやろ思うてな。まァ座って飲み」

 戻った洋に、猫山が声をかけた。

 洋は、グラスとビールの缶が、座卓代わりの電気炬燵の上に置かれる音を聞い た。
「今日は初日やから、ワシのおごりや。明日からは一本ずつ金もらうよってな」  そう言って猫山は洋のコップにビールを注いでくれた。

 猫山は、洋が在学している、東京にある目の不自由な者のための更生施設の先 輩に当たるのだが、この視力でどうやって施設に入ったのかと不思議に思うほど 目が良かった。

 洋の視力ではビールをコップに注ぐのも一仕事で、コップを目の前に持ってき て、ビールの白い泡の線が指で触れているコップの縁から溢れないように、じっ と見詰めながら注がなければならない。ところが猫山は、いともたやすく注いで 見せる。それどころではない、猫山は雑誌や新聞さえ読める視力の持ち主だった。 現に猫山は、この温泉郷では昼頃になってようやく配達されるA新聞の朝刊を取 っていた。その朝刊を畳の上に広げ、老眼鏡らしい眼鏡を掛け、長い時間かけて 読むのを日課にしているのだ。

 洋は猫山が注いでくれたビールを一気に飲み干して、さらに自分で注いでまた 飲み干した。仕事の途中ホテルのロビーで缶コーヒーを買って飲んだが、喉の乾 きは激しかった。

 猫山が不意に、
「洋、酔っ払わんうちに清算しとこ」
と洋を促した。
「何人やった?」
「七人です」
と洋が答えると、
「そんなら5、7、35で3,500円やな」
と猫山は、この温泉郷のマッサージ師の元締めである自分の取り分を計算した。

 洋は千円札を3枚と500円玉を一枚、猫山の前に差し出した。
「おおきに。これで何ぼや、旅館に2,100円払うて、洋の取り分は15,400 円やないか。ええ仕事やな洋。目ェ見えても、一晩で15,000円も稼げる仕事ほ かにあらへんで。一晩でそんなに稼げるのは、ソープランドの姐ちゃんくらいな もんや」

 猫山は品のない冗談を言って、テーブルの上の金を音を立てて取り、
「初日で疲れたやろ、早う寝ェ」
と洋を促した。

 洋は二階の部屋に上がり、布団を敷いてもぐり込んだ。絶え間ない渓流の音を 気にする間もなく、洋は眠りに落ちた

〔1項の終わり〕
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