洋の夏休み
−10−

 サウナ風呂で夜を明かして、洋と猫山が山間の温泉郷に戻ったのは翌日の昼過 ぎだった。

 洋は猛烈な二日酔いに見舞われた。帰途のタクシーの中、洋は苦しみの極にあ った。うねうねとした山道で右に左に揺られて、頭の中を掻き回されるような頭 痛は倍加され、吐き気が絶え間なく突き上げてきた。洋は、二度、タクシーを停 めてもらって側溝に向かって吐いた。二日酔いの症状は、その日の夕方まで尾を 引いた。

 二日酔いの症状がおさまると、体はだるかったが、心は不思議に穏やかになっ ていた。猫山の
「仕事や、行ってきい」
という言葉に対しても、これまでのように反発を感じることもなく、素直に従っ た。

 その夜、洋は力の抜けた体を押して、四人の客を揉んだ。

 山間の温泉郷には秋の気配が漂いはじめていた。夜は、半袖で外出すると肌寒 さを感じた。寝るときは、厚い布団を掛けて寝なければならなかった。

 そのように涼しくなっていく気候の中で、洋の心は澄んでいった。それは、か つて洋が経験したことのない、不思議な澄明感だった。高く退いた秋の空のよう に、心の隅々までが澄みきって、そのありさまや動きを、因果の糸を一本一本た どりながら透かし見ることができるようだった。猫山への反発が消えたのと同様、 洋を捉えていたさまざまなこだわりが薄らいでいった。

 洋は、先の啓子ちゃんからの電話の内容を思い返してみた。洋はあの啓子ちゃ んの話を聞くまで、啓子ちゃんがこの温泉郷に自分を訪ねてくるという、まさに 夢のような話を心の支えにして、日々仕事に励んできた。それが突然駄目になっ て、したたかに打ちのめされたことは確かだった。しかし、あのとき啓子ちゃん は、
「ご免なさい、施設に戻ったら電話ください」
と言ったではないか。

 その言葉は、ショックを受けた直後の洋にとっては、よそよそしく冷たいもの に聞こえた。しかし、言葉の内容は、けして別れを意味したものではなかった。 啓子ちゃんの言葉どおり、施設に戻ったら電話をしてみよう。それから、あの女 の客が女将をしているという、銀座の料理屋へも行ってみよう。ご馳走してくれ ると言っていたではないか。洋は、澄みわたった心でそう思った。

 そのように、再び芽生えた希望を胸に、洋は黙々と働いた。富屋の社長のもと にも行ったし、酔っ払った客も揉んだ。

 そして、八月最後の月曜日、洋は帰り仕度にとりかかった。財布の中の金は、 最初に目標にした金額をいくらか上回っていた。
「洋、ご苦労やったな、よく頑張った。これでお前は一人前のマッサージ師や、 どこへ行っても飯食えるで。元気でな、何か困ったことあったら、いつでも言っ てきいや。ワシが何とかしたる。金ものうなったら言ってきい、いくらでも貸し たる。その代わり、利息は高いで」

 そう言って猫山は笑った。

 猫山はバス停まで洋を送ってくれた。これまでに何度か猫山のもとを訪れてい る洋だったが、帰途、バス停まで猫山が送ってくれるのは初めてのことだった。

 洋はバスの乗り口の前に立つと、猫山に手を差し出した。猫山は、差し出した 洋の手を両手で握り締めてくれた。その猫山の手は、長年仕事で鍛え抜かれた、 大きくガッシリした職人の手だった。
「洋、手が大きくなったやないか。立派なもんや」

 猫山の言葉どおり、洋の手は一か月前、この温泉郷にやって来た当座より大き く分厚くなっていた。もう、一日に十人の客を揉んでも、指や手首が痛むことは ない。あの銀座の社長だという女の客のように、太ったマネキン人形のように固 い体を揉んでも、何とか揉みこなす自信もできた。
「お世話になりました」

 そう言って、洋はバスに乗り込んだ。

 運転手はすでに席に着いていた。エンジンがかけられ、車体が振動しはじめた。 窓から見上げる空は、ウー氏を見送った日の空より、ずっと高く青いようだった。 ドアが閉められ、バスは麓の駅に向かって走り出した。

     完

〔10項の終わり〕
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